我ならぬわれ
宗教というと、世間では、厳粛・おごそかというようなイメージを伴って受け取られているように感じるのですが、「宗教的」と「宗教」って別物なのかもしれませんね。以前に聞いた「凡庸な修道女」の話が重なります。「この世ならぬ空間」を追い求める凡庸な修道女と、この世の延長にいる修道女。私は告解に、表面的な実感を求めた「凡庸なプロテスタント」です。
ひじょうに感覚的ですが、プロテスタントは微分的で、カトリックは積分的とでも表現すればいいような、この世というか日常生活をも包み込むようなものをカトリックに感じます。
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赦されるというのは、自分を退けた彼方に、ほんとうの自分で「ある」というようなことなんでしょうね。
主を仰ぎ見れば 古きわれは、
うつし世と共に 速く去りゆき、
我ならぬわれの あらわれきて、
見ずや天地ぞ あらたまれる。
賛美歌355 1番
カトリックでは、ゆるしの秘跡が「我ならぬわれ」へと導いてくれるのでしょうね。プロテスタントではそれに相当するものがない??
Nov16,1997