日本というコンテキストで
「デフォルトとしてキリスト教」の中で「キリスト者らしくある」ことは容易なことだと思うんです。かなり語弊がありますが、考えたり、悩んだり、選択したり、というようなことを棄権し怠るということは、結果として本人の信仰に拠らずにキリスト者への道を歩みことになり、キリスト者「らしく」生き、生活することになるのですから。
私自身が「デフォルトとしてお寺・神社」だったからこそ「信仰としてのキリスト教」が見えたのかもしれないんです。もし私が、「デフォルトとしての教会」という中にあったとしたら、「宗教的」に留まり、そのことに酔いしれて、今よりもっと「クリスチャンらしい生活」をしていたかもしれないですが、十字架・救い・贖い・イエスの血肉と対峙することなくクリスチャン生活・教会生活を送っているだろうなあと想像してしまいます。
団地の一室の教会、ステンドグラスもパイプオルガンもない、畳の上での「教会らしさ」のない教会だったからこそ「イエス・キリストを信じる信仰」へ至ったのかもしれません。
私の中に「らしさ」を求める思いが大きくあります「教会らしさ」「宗教的雰囲気」に弱いのです。私の金の牛です。
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長崎県におられるプロテスタントの知り合いの方から、「デフォルトとしてカトリック」の地区にはそれほど伝道はしていないようなことを聞きました。そして隠れキリシタンの信仰を継承している地区では伝道していないようなことを聞きました。これは私が聞いた「一例」でしかないのですが、セクト意識が働いているのかもしれません。ユニヴァーサルなカトリックとそれに対峙するプロテスタントという構図ではなく、そして「日本のカトリック自体、プロテトされるほどのモンでもなく」に「日本のプロテスタントはプロテストしない」を追加したような構図です。
私が「プロテスタントである」ということは、結構むつかしいです。
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デフォルトとしてキリスト教でない日本では、かえってキリスト教信仰の自由があると言い切ると語弊がありますが、自由にキリスト教信仰と対峙できるように思います。
Nov22,1997