信仰の内容
聖書の歴史性を尊重するひとりのプロテスタント者(根本主義、福音主義)として、信仰の立場は異なりますが、学問的レベルの高い、解釈学の近年の成果を無視できないどころか、真摯に学ばなければならないと考えております。その意味では、聖書の歴史性を尊重するあまり、本文批評という「学の領域そのもの」を否定するようなムードが、聖書の歴史性を尊重するプロテスタント教会の陣営の中に(一部に)あることは、わたし個人としては悲しいことと思っています。(聖書を不可侵とするような感情と同じ様な思いが、わたしの中の奥深くに流れているのは事実です。)
ただ、わたしは、信仰は信仰、解釈学は解釈学、と分けてはいません。理性で合理的に納得したことと、わたしという、ひとりの人格が、心から信じて信仰告白している内容が異なるというような、引き裂かれた状態にはないのです。そして、そのような引き裂かれた状態を目指してもいません。自分の信じているものが、ほんとうに正しいかどうかを、与えられた理性で検証するべきだと思いますし、聖書の歴史性を尊重するキリスト者の多くは、聖書全体の記述の『事実』が信仰の根拠になっているので、その事実関係を検証し続けることは大切なことだと考えます。(もちろんわたしは考古学者でも、歴史学者でもないので、あまり偉そうなことは言えませんが・・・。)
わたしにはわからないことがあるんです。 それは、解釈学の成果を是としている教会のほうが、特にプロテスタント教会の中ではずっと多いようですが、そのような教会において、ひとりひとりの信仰者は、どのような内容の信仰を告白しているのでしょうか?
いろいろな資料説や様式史・編集史の手法を用いた本文批評の成果を取り入れて、それでもなお使徒信条を、自らの、ほんとに信じ切れる信仰の内容として、自らの口で告白できるのでしょうか?
それとも、聖書の歴史性を問題視せず、近年の解釈学という学に基づく歴史性を尊重する教会においては、聖書の学びの内容と、信仰の内容が乖離しているように感じるのですが、教会でなにかフォローしているのでしょうか?(信仰者が理性と信仰のはざまで引き裂かれてしまうように思うんです。)
August28,1995