聖書の世界へ
私は時々思うんです。いくら日本のコンテキストを考慮して、伝道する者・宣教する者が聖書を、そして聖書の神を語っても、聞く側がその語られた聖書の世界のコンテキストの中へ飛び込んでイエスと出逢わなければ、的外れな信仰になってしまう恐れがあるのではないかなと・・・。
教会の敷居をまたぐ前の私の教会のイメージは、パイプオルガン、賛美歌、ステンドグラス、クリスマス・・・、十字架やイエスの物語に関して知識がなかったわけではありませんでしたが,キリスト教といえば上っ面の「ハイカラ」なイメージしか私にはありませんでした。そんなイメージの中にあった者が,2000年前の中東に現れたイエスと出会うまでは長い道のりでした。
伝道集会の短い説教だけで聖書のイエスに出逢われる方もいらっします。(求道期間が0?)また,コンテキストの壁をあまり意識しないで,軽々と行き来される方もいらっします。私の場合は,聖書のイエスにたどりつくまでが大変でした。信ずるか拒絶するかの二者択一の選択で思い悩む以前に,コンテキストの壁に苦労したように感じます。
トマスの信じたイエスを,マグラダのマリアに現れたイエスを「我信ず!」と信仰告白し続けるためには,2000年前の中東の世界(聖書の舞台)へ飛び込まなければならないように感じます。
旧新約聖書の舞台を訪れたことがない者が、へブル語もギリシャ語も駄目な者が、それでも聖書の世界へ飛び込めるのは、聖霊の働きによるのでしょうか?
Feb19,1996