「我信ず!」
今机の上に文語訳聖書があります。教会に通い始めてしばらくして買ったものです。教会では新改訳を用いていましたが、まだ何の知識もない私は、神保町の書店で、並んでいたいろいろな聖書から、なんとなく原典っぽい気がして(素人っぽいセンスです)文語訳を選びました。
口語訳が出るまでは、この文語体の羅列を潜り抜けながら聖書のコンテキストへ入っていったのですね。トマスに現れた神を仰ぎ見る道はもっと険しかったことと思います。
今、マンガ聖書物語によって、聖書本文に依らないで(的外れという危険を伴いますが)聖書の世界を垣間みることが出来ます。茨の道ではなく整備された道をかっ飛ばしてですが・・・。
ただ、最後の最後は、聖書の舞台へ、自ら飛び込まなければならないと思います。
聖書の舞台へ飛び込んで、トマスに現れた神を、トマスを生かした神を、この<私>の目で見るのです。そうすれば、聖書のコンテキストの神が、自分のコンテキストの中に現れるのではないでしょうか?(聖霊の働きによって)
<私の神>は、決して聖書の中には見出せない、そこに現れるのはアブラハムの神であり、イサクの神であり、トマスの神です。
聖書の舞台へ飛び込んで、<私の神>を探すのを止めて、トマスに現れた神を目の当たりにしたときに、私のコンテキストの中に神が現れて、「我信ず!」と素直に告白できるのかもしれません。
自分の表現力の拙さというより、まだまだ私の信仰が過渡期の中にあるんだなと、改めて実感しました。決して安定な信仰を目指していませんが、歯がゆさを感じます。
Feb22,1996