震災1年

 明石海峡を通る船が汽笛を鳴らしました。1月17日正午。

 震災1カ月の正午の黙祷は、いろいろな想いが頭をよぎり、熱いものがこみあげてきました。傾いたビル、瓦礫の残る中での黙祷でした。

 今日は、静かな気持ちで黙祷しました。いま神戸は、春の日のような暖かさに包まれています。

 震災地にありながら、肉親を失うこともなく、自宅も一部損壊、雇用もそのまま・・・、同じ震災地にありながら、肉親を失い、自宅を失った方々と同じ思いで黙祷したとは思いません。 思いが異なる方と、信仰が異なる方と、短い黙祷の時を共有することが不思議に感じられました。

 1年前の今頃、度重なる余震の恐怖の中にありました。どこからともなく漂う燃えるような臭い、電気も水道もガスもストップ、通じない電話、コンビニの長い列、瓦が落ち塀が倒れた光景・・・、でもそれも震災の被害の激しかった地域から見れば平和な1シーンだったことでしょう。

天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
         ・
捜すのに時があり、失うのに時がある。
         ・
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
         ・
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 旧約聖書 伝道者の書 3章より 新改訳

 今日の黙祷の時を、キリスト教の信仰を持って頭を垂れた方は少数派であったことでしょう。黙祷の時が終わって、自分が異教徒であることを何故か実感しました。

January 17,1996

itsumi
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