孤独
わたしは、キリスト教(とくにプロテスタント)が孤独の宗教だとは考えないのですが、しかし、現実問題として、そして、わたし自身の体験からも”孤独”がついて回るように思います。”あなたも、あなたの家族も救われる”との聖書箇所がありますが、救済は個人単位です。神の前に、ただひとり、裸になること。神を仰ぎ見ること。他人(家族を含めて)との相対性ではなく、神との絶対性の中に身を置く”一点(十字架)”が必要と思います。
ただ、十字架は一点(アルキメデス点)であり、イエスも2000年前からずっと十字架にはりつけになっているわけではなく、十字架は歴史上の過去の一点です。今大切なのは、聖餐(Eucharist)によってRealにイエスと連なる聖餐共同体としての教会であり、そこには<共に>、<聖餐>によって、イエスと連なる連帯があります。”イエス・キリストの血肉”によって堅くつながった共同体です。
ただ、教会によって聖餐理解が異なりますし、個々のキリスト者の聖餐理解にも広がりがあります。聖餐(Eucharist)において、”イエス・キリストの血肉”を、そこに”現実”に存在するものとして受け取らない限り、教会の信徒の交わりは、人間と人間の交わりであり、教会の中で孤独感を感じるでしょう。(わたしも経験があります。)
聖餐(Eucharist)によらなければ、キリスト教は”孤独”に対して無力でしょう。self-imageの向上は、神中心から人間中心の世界観の中で、自分を常に精神的に、ある程度”ハイ”の状態に維持せねばならず、これはもう宗教の範疇と言うより、医学、心理学の範疇ではないでしょうか?
絶対で無限な神を見失い、相対的で有限な人間に頼ろうとしたとき、その破綻は、孤独の奈落の底へころがる危険があるのでは?
January 11, 1995