二つの孤独
ただ、わたし自身は神を見たこともなく、現在のところ、聖書を通じて、その中から神を仰ぎ見るか、あるいは、聖餐の中で、見える品々を通して神を仰ぎ見るか、もしくは、祈りの中に神を思い描くかしかなく、どうしても”観念的”になってしまいます。
聖餐(Eucharist)が教会の中心であり、キリスト者を結びつけるものであると考えるのですが、残念ながらその”聖餐”理解が、教会、個々のキリスト者によってかなり異なります。
わたしは、「主と共に聖餐に与る」のではなく、聖餐において、”主ご自身の血肉を喰らう”者です。
ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ、信仰によって現実にまた実際に、しかし、身体的または肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。
ウエストミンスター信仰告白 第29章七より
わたしは主の血肉を(現実に、しかし霊的に)喰らう聖餐を通して、人と人がつながる聖餐共同体が存在すると考えます。
わたしはむしろ、<積極的な孤独>(神の前に、神との交わりを第一とする)に神学の出発点があるように考えます。(あくまでも出発点であり、神学のすべてがそうだとは考えません。)
January 11, 1995