神の痛み
わたしは”<神の沈黙>、この世の悪に<沈黙>される<神>”と言う表現をしましたが、この表現を通して<神の無力さ>、<なにもしない神>を言いたかったわけではなく、むしろ、<無限で絶対的な神>を思い描いての発言でした。
”わたしは神が<痛み>を感じながら<沈黙>された<寛容>”を感じます。
神の痛みは、この神の怒の対象を愛せんとし給う神の御心である。
痛みにおける神:北森嘉蔵、”神の痛みの神学”所収
わたしにとって神とは(遠藤周作風ですが..)、いつも祈りに応えてくれる存在ではなく、寂しいときに顔を見せて慰めてくれる存在でもなく、つまり、”自分のため”につくりあげた”偶像”ではなく、わたしの心の中に住んでいる”理想像”でもなくRealです。
したがって、わたしが<神の沈黙>と言うとき、その<沈黙>の中に、”偶像”ではない、<無限で絶対的な神>を思い描くのです。つまり<積極的な孤独>の中に<沈黙>の神の<寛容>に包まれる喜びを見るのです。
その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
沈黙:遠藤周作、225頁
わたしの<神の沈黙>は、<痛み>を感じながら<沈黙>された<寛容>へ連なるものです。
January14,1995