裁きの日
「神との関係」においての ” Who are you? ” に関しては、「神からの問いかけ」ではないかなあと思います。
私には、” Who are you?” との神からの問いかけに、自我から自己へと、自分を退けることが、本義としての「あきらめ」に重なります。
神への問いかけとしての ” Who are you?” からは、ほんとうの神の姿に到達しないのではないかなあと思います。探り求めて、結果として探し当てるというようなモノではないように感じるからです。
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記42章5,6節 新共同訳より
もちろん、神を尋ね求めることは大切なことだと思います。
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「知る」ということ、本義としての「あきらめ」は永遠に終らない問いなの
でしょうか?
遅くとも、裁きの時には本義としての「あきらめ」が成就しますので、永遠に終らない問いではないと思います。もちろん、特別の「たまもの」のある方は、既に「あきらめ」が成就された信仰生活の中にあるでしょう。
Sep20,1997