信じるということ
「沈黙」が必ずしも「謙虚」ではないのかもしれません。「謙虚」のつもりが、「悪意」ではない「善意」の「無関心」へとつながり、「結局何もしない・何も云わない」となってしまっては、それはもはや「謙虚」とは云えないように感じます。謙虚の沈黙が、リアルと主義主張の距離の原因ともなりうるのではないか、とさえ思います。
私は、それらの場面で、” Who are you?” と「敢えて」問うべきだったのかもしれません。自分に資格がないだのと考える前に・・・。
「目の前の現実」と、「主義主張」(リアリティ)を結ぶ為の” Who are you?”は必要だったのかなあ?と、今になって思い返しています。
戦争の悲惨さを伝える写真、事件の被害者に向けられるマイクやビデオカメラetc、「謙虚の沈黙」ではないモノが求められる場面を連想しました。
*
私自身が、「絶対的な他者である神と出会い、その関わりの中から、自分の絶対的な位置を知り」と云いつつも、そんな関わりを経験したこともありませんし、それは私自身の願い・希望のようなモノです。聖霊を実感したり、イエスと出会ったり・・・、そんな経験を望みつつも、未だです。
神を見たい、純粋に信じたい、ほんとうに心から思います。
でも、「アロンの金の牛」へと心が向かうのが現実です。
結局は、競争社会の中で、自分を相対的にしか見ることが出来ないでいます。他人と比べて、或いは、かつての自分と比べて、時には自分を煽り、またスランプに陥って、自己肯定と自己否定の繰り返しです。
*
競争社会の中にいのちを与えられ、そこで生活するのが摂理なら、「絶対的な他者である神と出会い」というのは、私の想像するような「清らか」なものではないのかもしれません。
Oct2,1997