摂理
私は決して「プラス思考」を否定するわけでもなく、むしろ「プラス思考そのもの」には賛成なのですが、「前向きに生きましょう」との言葉の裏には、「現実逃避」の臭いがプンプンして嫌悪さえ感じることがあります。「自分が、今、苦しみ・悩んでいること」を見つめずに、あきらめて(本意のあきらめではなく、はるか彼方を夢見るように・夢追うように「前向きに生きましょう」では、「神の摂理」・「主の用意された道」をないがしろにしてしまっているように思えて、どうも好きになれません。
「プラス思考を装った現実逃避」と「プラス思考そのもの」との関係は、ひょっとしたら「諦め」と「本意のあきらめ」との関係そのものかもしれませんね。今・この時の状況を諦めるのか、明らかに見るのか・・・・。
「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」
創世記 41:52
「不幸を不幸のまま抱きしめる」という表現は良いですね。まさに「本意のあきらめ」であり、「所謂プラス思考」ではない、ほんとうの意味での「プラス思考」ではないかなあ、と感じました。
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プロテスタントの教会で「燃え尽き症候群」という言葉をときどき聞きます。ギラギラした輝きをいつも追い求めていれば、燃え尽きてしまうのではないでしょうか・・・?
Feb01,1998