映画「深い河」

 昨日、神戸映画サークル協議会の特別例会で、遠藤周作の「深い河」が一日だけの上映がありました。平日の午前にもかかわらず、中規模のホールが一杯になる程の人が集まり私も驚いたのですが、シスターの方々の姿もちらほら見受け、それぞれが「深い河」に何かを求めているのかなあと感じました。神戸で封切り上映がなかったので(震災の影響?)、大阪、明石と足を延ばし、今回4回目でしたので、じっくり味わうことが出来ました。

 ガンジス河のほとり聖地ベナレスで、主人公の大津が教会から追い出されて、捨て犬のようにヒンドゥー教のアシュラムに拾われて、そこで一人でミサ(聖餐)を捧げる場面があるのですが、カトリックの「教会」って、プロテスタントの「教会」とは、かなり異質なものなんだろうなあと感じました。

 遠藤周作の原作にはなかったように思うのですが、脚本の熊井監督のミサ(聖餐)の捉え方から、キリスト・イエスの血肉を喰らうという「実質変化」(Transubstantiatio)をズバリ表現したかったのか、ヒンドゥー教のアシュラムにあってもキリスト者であることを表現したかったのか、どうなんだろうなあと考えながら見てました。

 ただ、遠藤周作の原作の底流でもある「キリストとの同時性」を熊井監督は大切に継承されて、ヒンドゥー教のアシュラムにおけるミサの場面を挿入されたんだろうなあと感じました。プロテスタントにある者でしたら、映画の中で聖餐によって信仰を表したり、教会を表したりはむつかしいように思います。
 Feb7,1997

itsumi
深い河