続・ミッション
新約聖書の中で、「神の召し」という言葉から、私自身がもっとも印象深いのは、預言者ヨハネの次の言葉です。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
ヨハネ福音書3章30節(新改訳)
He must become greater; I must become less.
John3:12 (N.I.V.)
「神の召し」、「ミッション」というと、私は、どうも、大々的な海外宣教を連想してしまうのですが、都会の下町の、郊外に教会員が流出して、教勢が右肩下がりの教会に遣わされてそこで福音を力強く語り、堅く 聖礼典(ミサ)を執り行うのも同じ「神の召し」であり「ミッション」ですし、お寺や神社の影響
が根強く残っている村落の開拓伝道に遣わされ、ほとんど誰も会堂を訪れることもなく、牧師(神父)の家族だけの礼拝(ミサ)が何年も何年も続いたとしても、たった一人の求道者が起こされて、信仰を持ち、洗礼を受けたならば、それが神の意志である限り、大々的な海外伝道と、まったく同じ「神の召し」であり、「ミッション」なんでしょうね。
アメリカのテレビ伝道者が何万人もの洗礼者をもたらす働きと、村落の開拓伝道で たった一人の洗礼者が起こされた働きとは、神の目には、「まったく同列に」高価で尊いことだと思います。
ミッションって、人間の側で「お門違い」と感じることが多々あると思います。でも私は、人間の側の「やり甲斐・達成感」や反対に「責任感・重圧感」というような「ものさし」では云々(うんぬん)出来ないものだと思いますが、でも、云々してしまう「人間の弱さ」が現実に存在します。まさに「沈黙」のキチジローなのかもしれません。
ひとりの信仰者として、教会での礼拝に欠かさず出席して「あの人の賛美の歌声を聞いていると元気になる」と思われるのも、ひとつのミッションかもしれません。病弱で、なかなか礼拝に出席できないけれど、でも、心から祈るその人の姿を教会の中で見ると、「信仰の原点を見る思いがする」と思われるのも、ひとつのミッションかもしれません。
”神のわざ”を、人間が規定し、人間が評価すること自体がお門違いな行為なんでしょうね。
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御心・御旨・思召し(おぼしめし)、というような言葉で言い表される神の意志に、ミッションの根源があるように私には思えます。
Nov23,1999