思召し

 私が動因と云ったのは、人間の側が「決定的なもの」だと感じるというような意味合いです。

 ただ、問題として「ほんとうに、それがミッションか?」ということがあります。ものすごく大切なことだと思います。

 なにが言いたいか、というと、そのミッションが、ほんとうに、神の意志に基づく「御心(みこころ)」、「思召し(おぼしめし)」なのか?ということです。人間の側の「思い込み」や「義務感」「正義感」「使命感」は、神の意志に基づくところの「ミッション」とは、”似て非なるもの”でしかないのです。

 「神が、わたしに、このように決心させ、私を用いて下さったのだ!」と、思い込み、使命感に燃えることを、私は否定しませんが、でも、「ミッション」と「使命感」は異質だと思います。「律法」対「律法的」、「聖礼典」対「儀式的・形式主義」のような感じでしょうか・・・?

 その辺りのところを押さえた上で、の「動因」です。

 残念ながら、私自身に限って云えば、「神の言葉」を私は聞いたことがありませんし、御心を知る術(すべ)もなく、私にとって「ほんとうに神の思召しか?」を確認する方法がないのです。

 「ミッション」という言葉は知っていますが、でも、ほんとうの「ミッション」に接したことがありません。後から考えると、「あれが、私に与えられた、神からのミッションだったんだろうなあ~」と、おぼろげに感じる程度です。

 先程は、人間の側の「使命感」と、神からの「ミッション」は似て非なるもの、と言いましたが、実際には、神がミッションを、人間の使命感を通して伝えることもあるでしょうし、一概に「似て非なるもの」と断定するのも問題かもしれません。

 いろいろなことを、思いつくままに書きましたが、私にとって「わからない」というのが事実なんです。

 まあ、神の啓示に対して、それを受け取れるか、否か、ということになるのでしょうか?
 Nov23,1999

itsumi
信仰を巡っての断片