御心・御旨
自分自身は、信仰が弱い為か、賜物がないのか、神の声を聞いたり、神の姿を見たり・・・という経験はないのですが、他の信仰者の、そのような経験を見聞きすると、羨ましいなあ~という、私の弱さ故の若干のジェラシーを伴った”思い”と共に、単純に、私にとっても喜びであり、感謝
なんです。「神の声を聞く」なんて、ほんとうにうらやましい~~!
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『事実としての「神の声」・「召命」』と、『人間の側の(語弊が多分にある表現ですが)「思い込み」や「自らの鼓舞」或いは「文学的表現」としての「神の声」』とは、注意深く分けて考える必要があるのかもしれません。
それは恐らく、神からの、ほんとうの「律法」と、律法にまつわる、「律法的なもの」との違いのようなものなのかもしれません。
善意に解釈すれば、真剣に、真面目に律法を尊重し、遵守するあまりに、「律法そのもの」の周りを「自らの戒め」として、「律法的な雰囲気」で取り囲んでいたのが、いつしか形骸化して、「律法的なもの」も、「律法的な雰囲気」も、ほんとうの「律法そのもの」と同列に扱われて、本来は「神からの恵み」である「律法」が、「律法的な雰囲気」に呑み込まれて、生活全体を縛り付ける「枷(かせ)」のように変貌していったことにアナロジーを感じます。
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「文学的表現」としての「神の声」を私は否定しません。むしろ、信仰の局面ではポジティヴな動因として、好意的なものではないかなあ~と感じます。
ただ、「文学的表現としての神の声」が形骸化し、形式化され、それが動因として他者に向けられるようになった時に、「人の意志」が「神の声」に変貌し、強制力を持つ危惧を感じてしまいます。
それはまさに、私には、律法から律法主義が生まれた過程と重なってしまうのです。
「神からのミッション」は、ともすれば「人間の目にはお門違いな”ミッション”」が多々にあることと思います。むしろ人間の側が「ミッション」という言葉を、なんか、祭り上げてしまっているように思うのです。
肩肘張って、命がけの決心をして・・・・・、というようなミッションの持つ価値と、日々の生活を通して、自然にキリストの香りを漂わせるような自然体のミッションの持つ価値とは、神の目には両者とも同じ価値のミッションだと思います。このような2つのミッションの持つ価値に、同じ価値を見出せる目を持ちたい、と心から思います。
Nov28,1999