老子 ~ あるがままに
古い写真を整理していると、10年ほど前に愛媛を訪れた時に立ち寄った大蓮寺の写真が出てきました。
わざわざ大蓮寺に立ち寄ったのは、此処に河東碧梧桐が滞在したことがあり、大蓮寺の山門脇に碧梧桐の「山川草木悉有仏性」の碑が建っているからでした。碧梧桐は高浜虚子と並んで正岡子規の弟子でしたが、虚子が「ホトトギス」を継承したのに対して、碧梧桐は五七五調の形に囚われない俳句の道を歩んでいます。
「赤い椿 白い椿と 落ちにけり」 碧梧桐
赤い花に続いて白い花が・・・というように、次々と椿の花が落ちていく情景を、五七五調の形に囚われずに句に込めた碧梧桐の代表作です。この句で描かれているのは、ただ赤い椿と白い椿だけのシンプルな句です。
碧梧桐の「山川草木悉有仏性」の言葉から、老子の名言と言われるものが、何だか似ていたように感じて、調べました。漠然と孔子や老子、荘子の名前と、幾つかの名言のようなものは知っていても、儒教や道教に関して、ほとんど知識がありません。
上善は水の如し 水は善く万物を利して争わず
天は万物を生みて所有せず 育ててこれを支配せず
足るを知る
泥水もそのままにしておくときれいな水になる
孔子が倫理や秩序のようなことを含めて社会性を強調するのに対して、老子は「あるがまま」の自然を強調しているような感じで、それは碧梧桐の「山川草木悉有仏性」の言葉に通じるものを感じました。もちろん本来の仏教の在り方ではありませんが、曹洞宗の開祖である道元禅師は、自然界の全ての存在が、ただただ仏性そのものというニュアンスで、それに碧梧桐が共感したようです。
現実の世の中では、儒教的な倫理や秩序が重んじられ、「あるがまま」に振る舞うことが、ともすれば敬遠されますが、社会的動物という仮面を脱ぎ捨てることが、ヒトとしての在り方を考える時には大切ではないかと、老子の言葉をリサーチする中で、ふと感じました。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
Paul Mccartney, John Lennon
英知の言葉・・・Let it be、あるがままに
文化や地域、時間を超えて、社会性の中に埋もれるのではなくて「あるがまま」と対峙することの大切さの共通認識があるように思います。