江戸から東京
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」
今は閉店していますが、本郷三丁目の交差点に面して小間物屋だった「かねやす」がありました。享保の大火(1730年)の後に、町奉行の大岡忠相が、本郷の「かねやす」があった周辺から南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許したことから「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳が生まれたようです。
文政元年(1818年)に、江戸幕府が定めた江戸の範囲を地図上に朱色の線を使って示した「朱引図」というものがあり、その「朱引図」の中に朱線と同時に墨線で引かれており、黒い墨引きは町奉行所支配の範囲を示すもので、御殿山から目黒不動、今の渋谷・新宿・池袋から飛鳥山、道灌山、泪橋(小塚原の南)、大横川、そして木場・・・おおよそこの範囲内が町奉行所の管轄となる墨引という範囲になります。
本棚を整理する中で、「神戸今昔散歩」、「東京今昔散歩」という2冊の文庫本、もう何年も目を通していませんでした。「東京今昔散歩」をパラパラ眺めていると、永代の東、富岡八幡宮の辺りや木場の辺りの紹介記事が抜けています。豊洲や新木場はインバウンドも含めて、あまり観光的に脚光を浴びていませんが、実際には芭蕉記念館や富岡八幡宮、清澄公園や深川の江戸資料館など、江戸の名残を追い求める場所が幾つかあります。
「平賀源内電気実験の地」という石碑、墨田川左岸、清洲橋の東詰から下流方向すぐの処にあります。18世紀後半に活躍した自由人で、長崎で摩耗したエレキテル(摩擦起電器)を入手して、深川で模造製作に成功しています。ただ源内は、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったようですが、江戸時代に静電気の発生の実験をしてことから「日本における電気実験の父」的な存在とも言われ、電気が専門の身としては、一度訪れたいと思っていました。此処を訪れたのは、コロナ禍前、約5年前です。
松尾芭蕉が芭蕉庵を引き払って、墨田川を舟で上って奥の細道への旅立ちをしたのは、清洲橋の東詰の上流、徳川家康の命で掘削された小名木川と墨田川の合流地点付近です。
草の戸も
住み替はる代よぞ
雛の家
芭蕉
地図で確認すると、木場の東側になるので、江戸時代には墨引きの外になりますが、円楽一門会の寄席「若竹」があったのが江東区役所の近くで、一度だけ行ったことがあります。浅草や新宿、上野や池袋の定席の寄席と違って繁華街でもなく、円楽一門だけの身内だけだったので数年で閉じたようです。
それに対して、墨田川の右岸、人形町にあった定席「人形町末広」は、玄冶店の路地の向かい側にあったそうで、惜しまれつつ閉じた寄席、手元に「人形町末広」で録音された高座もあります。玄冶店の辺りは甘酒横丁や水天宮も近く、観光スポットの範疇でしょうね。
墨田川の右岸を上流に、吾妻橋を越え、言問橋の西詰近くに、小高い丘があり、中世以前、この辺り一帯が湿地帯だった頃にも待乳山だけは島のような感じだった処です。待乳山辺りから北に、隅田川の氾濫による洪水を防ぐ目的で江戸初期に作られた日本堤という土手があり、山谷堀が並行して流れていたそうで、日本堤の土手通りを歩くと、吉原田んぼの中に吉原の街があって、山谷堀を舟で、或いは土手通りを歩いて、江戸の街から吉原に向かったそうです。
コロナ禍で、墨田川と荒川に挟まれた、かつての向島の散策は途切れて、荷風の愛した玉ノ井一帯も、かつての面影を偲ぶことができず、新しい東向島の住宅地へと様変わりしているようです。
荷風の断腸亭日乗を、暑い夏につれづれに読みふけりたいと思いながらも、漱石日記も、なかなか目を通していません。