古い時刻表

 日本の時刻表第一号の復刻版と銘打って売られていた大正14年4月号の時刻表を本屋で買って、興味深く眺めています。1925年なので、およそ一世紀前の時刻表で、結構「汽船」(船便)も多数掲載されて、まだまだ乗客の海上交通が盛んだったのだなあ~と思います。

 関門トンネルも青函トンネルも開通していないので連絡船で九州と北海道が結ばれ、丹那トンネルが開通していないので東海道線は御殿場経由で富士山の北側を迂回して、清水トンネルも開通していないので、上越線自体がないくて新潟方面は、碓氷峠の軽井沢・長野経由の信越本線で向かっていた時代の時刻表です。この時刻表を見ているとトンネル技術が見え隠れしているように思います。

 首都圏で目につくのは、山手線が品川と赤羽を結ぶ区間で、まさに東京の街の山手を走っています。まだ池袋から田端・上野が山手線の支線扱いで、山手線の意義が、東海道線と東北線との間の貨物輸送のバイパスの路線の役割を担って、常磐線方面とも結ぶために池袋から田端まで支線を延ばしていた時代です。

 総武線は両国駅がターミナル、東北線、信越線、常磐線は上野駅がターミナル、中央線は、この当時は飯田橋がターミナル、そして東海道線が東京をターミナルとして、分散型だったようです。

 省線として電車は、山手線が「の」の字運行で、東京から品川・新宿・池袋経由で上野まで。中央線(旧甲武電車)が東京駅から国分寺まで、後の京浜線となるのが、東京駅から桜木町までです。まだ総武線、常磐線、宇都宮線、高崎線は電車ではなかった時代です。甲武電車のターミナルだった旧万世橋駅も、大きな駅として時刻表に載っていますが東京駅まで直通しているので、単なる途中駅になっています。

 印象的なのは、東京港からの汽船がしっかりと時刻表に載っています。

 大阪近辺では、大阪環状線が未だで、基本は東海道線と湊町からの関西線、それに片町からの片町線になります。大阪と福島間と、大阪と天王寺間は別系統の運行で、阪和線がまだなく、前身の阪和電気鉄道も未だで、和歌山へは南海電車か王寺経由となります。

 神戸港と大阪港からの航路・汽船の時刻も、列車の時刻と同列に記載されており、まだ淡路や四国には橋がなく、また空路がない時代なので、九州や、奄美、沖縄、そして当時は台湾や朝鮮半島、上海や満州への航路もたくさん時刻表に載っています。

 今住んでる、神戸の西部・垂水辺りは1時間に1本程度の列車があるだけで、まだ「明石郡垂水村」の時代で、神戸への通勤は皆無で、舞子辺りが神戸や大阪の郊外の保養地のような雰囲気だったと思います。

 時刻表に、ポートトレインが乗っていました。日本郵船の欧州航路汽船が神戸港から出港するときに限り運行だそうで、京都駅から大阪駅、そして住吉駅を経て、貨物線の神戸臨港線経由で「神戸港駅」へ行く、唯一の旅客列車のようです。

 ちなみに時刻表には東京駅と横浜港駅とを結ぶ、アメリカ行きの航路へつながるポートトレインの欄がありましたが、残念ながら関東大震災で横浜港駅が壊滅的被害を受けて、時刻表には「当分の間運休」となっていました.

 まだ丹那トンネルが開通していないので、国府津から、今の御殿場線経由で三島までのルートが、当時の東海道線でした。大正末期には伊豆半島周辺は保養・観光地として栄えていたようで、修善寺や伊東・下田への電車が既にあり、小田急が未だ開通前ですが、箱根の強羅への登山電車も既に時刻表に載っています。

 100年前の鉄道網や、運行列車を見ていると、歴史の教科書には顕われないような世相が見えてくるように思われます。

itsumi
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