漱石忌
漱石に所縁のある日付として、明治天皇の御大喪の夜に乃木大将夫妻が殉死した1912年(大正元年)9月13日のことを、漱石が小説「こころ」の中で、
「御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。」 夏目漱石「こころ」より
この9月13日が真っ先に浮かび、そして次は、 文部省からの文学博士号授与を辞退した1911年(明治44年)2月21日になって、漱石忌の12月9日は、どうしても3番目になってしまいます。
岩波書店から、これまでに何度か漱石全集が出ていますが、手元にあるのは1978年から1980年に掛けて岩波書店から順次配本された全35巻の新書版です。手元に揃っている全集は、夏目漱石と志賀直哉だけです、
漱石は学生時代には文系よりも理系が得意だったようで、ロンドン留学の折にも、結構、自然科学系に興味を持っていたようです。実際に漱石の小説の中では「坊ちゃん」の主人公は、東京理科大の前身である物理学校に通い、中学校の数学の教師として松山中学に赴任しており、「坊ちゃん」では、主人公と、同じ数学の教師であるヤマアラシが理系でポジティブな位置づけです。それに対して漱石が松山中に赴任した立場と同じなのが教頭の赤シャツで帝大卒の文学士、それと画学教師の野だいこが文系で、この2人がネガティヴな位置づけとなっています。
小説「吾輩は猫である」では、門弟の水島寒月が理系で、漱石宅に出入りする中ではまともな人物として描かれていますし、小説「三四郎」では、同郷の先輩として野々宮宗八が理科大(東京帝国大学理科大学)で光線の圧力の研究をしている設定で、これもまともな人物として描かれています。
漱石は、明治28年に松山中学に赴任、そして明治29年には熊本の第五高等学校講師となり、明治33年にロンドンに留学、そして帰国後、明治36年に第一高等学校講師となり、東京帝国大学講師を兼任し、明治37年には明治大学講師も兼任をしています。そして明治38年に「吾輩は猫である」を発表し、明治39年には「坊つちやん」を発表しています。
そのような多忙な中、明治38年に高浜虚子に宛てた書簡には、
「毎日来客無意味に打過候。考へると己はこんな事をして死ぬ筈ではないと思ひ出し候。元来學校三軒掛持ちの、多数の来客接待の、自由に修学の、文學的述作の、と色々やるのはちと無理の至かと考候。小生は生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二三篇でも出来ればあとはどうでもよいと云ふ寡黙な男に候處。それをやるには牛肉も食はなければならず玉子も飲まなければならずと云ふ始末からして遂々心にもなき商売に本性を忘れるというふ顛末に立ち至り候。何とも残念の至りに候。(とは滑稽ですかね)とにかくやめたきは教師。やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事にて候。」
明治38年9月17日 高浜虚子宛の書簡より
結局は「坊つちやん」を発表した翌年、明治40年には、第一高等学校、東京帝国大学、明治大学の教職を辞し、朝日新聞社に入社して、『とにかくやめたきは教師。やりたきは創作』という虚子宛の書簡の言葉を実現したことになっています。
漱石は大正3年に学習院で学生を前に「私の個人主義」という講演をしたことからもわかるように「自己本位」の立場を貫いています。文部省からの文学博士号授与を辞退していますし、如実に顕われているのが小説「草枕」の冒頭です。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」 夏目漱石「草枕」冒頭より
漱石は、明治の精神の中で育って生きながらも、しかし明治の近代的な自由人としての「生きざま」を併せ持つことが、漱石の小説から、その息吹を感じます。