漱石を巡って
図書館で本を借りるようになって、漱石にまつわるエッセイ集のような本を借りました。お出掛けの時に、漱石所縁の地を巡っていた時期があり、その頃の写真をパソコンから探し出しました。
最初に漱石の作品に出逢ったのは、小学校の高学年の時に、少年少女文学全集のようなもので読んだ「坊ちゃん」でした、松山を訪れた時に、漱石所縁の地を巡りました。
坊ちゃんが、物理学校(現・東京理科大)卒業後に数学の教師として赴任した旧制・松山中学校の跡地、漱石自身も実際に松山中学校で英語を教えていました。「坊ちゃん」では英語の教師は、古賀(うらなり)で、延岡に転属になりますが、漱石自身は松山で1年過ごした後に、熊本の第五高等学校に赴任となります。旧制・松山中学校は、現在は松山東高校となって、今は道後温泉方面に数百メートル移転しています。
今は松山市内ですが、「坊ちゃん」の時代には隣接する道後湯之町の温泉・道後温泉、「坊ちゃん」では住田となっています。「坊ちゃん」の一節には、
・・・おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及よばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛でかける。・・・(中略)・・・温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。・・・ (漱石、「坊ちゃん」、青空文庫より)
・・・四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。・・・(漱石、「坊ちゃん」、青空文庫より)
この住田が道後のことで、今の道後温泉本館となって「3階個室休憩と霊の湯入浴1,500円」という特別の料金で3階の休憩室を利用すると、お茶だけではなくて、「坊ちゃん団子」と呼ばれている団子も出てきます。
道後温泉本館の3階の休憩室のひとつが「漱石の間」となっています。特別の料金を払えば見学出来ます。
そして坊ちゃんが、温泉に通うために乗った汽車の復元「坊ちゃん列車」です。路面電車の線路を走っており、別料金で乗りましたが、乗り心地は、普通の路面電車の車両の方が良かったです。
赤シャツ(教頭)と野だいこ(画学教師)と3人で釣りに行ったのが、伊予鉄道に乗って高浜から舟に乗って、蛭子神社の沖あたりだったようです。
・・・「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。・・・(中略)・・・野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。・・・(漱石、「坊ちゃん」、青空文庫より)
観光地図には「ターナー島」と書かれている岩礁です。一応、松の木がありました。
漱石が松山に居た時に住んでいた下宿先、愚陀仏庵の跡地で、今は駐車場になっていました。「坊ちゃん」では、最初に下宿した骨董屋の「いか銀」のモデルかもしれません。ちなみに「愚陀仏」とは漱石の俳号です。
松山中学から、熊本の第五高等学校に移る時の句
わかるるや
一鳥啼きて
雲に入る 漱石
熊本を舞台にしたのが「草枕」ですが、残念ながら熊本に行って、漱石の足跡・草枕の舞台の「山路」を歩きたいと思いながら、まだ、その思いは叶っていません。
漱石が生まれた、江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)の夏目金之助の生家跡で、今は焼肉屋さんでした。
漱石生家跡の通りは「夏目坂通り」という愛称がついています。
そして明治40年から晩年を過ごした漱石山房がある路地のような通りが「漱石山房通り」という愛称となっています。
漱石山房跡地は、新宿区立の漱石公園です。場所の確認で検索をすると、数年前にこの辺りに新宿区立漱石山房記念館が出来たそうで、残念ながら今まで数年間知りませんでした。コロナ禍で、しばらく東京へ出掛けていません。こんど東京へ出掛ける時に、是非立ち寄りたいです。
「吾輩は猫である」を執筆していた当時に住んでいた漱石旧居跡、猫の小さなブロンズ像がありました。この辺りは、森鴎外ゆかりの場所でもあり、鴎外の「青年」の舞台でもあります。森鷗外の旧居跡が、この漱石旧居跡から北東に300mほど離れた団子坂上となり、文京区立の森鷗外記念館となっています。
団子坂です。小説「三四郎」では、この団子坂での菊人形展へ、三四郎と美禰子が初めてデートをしています。谷中と千駄木とを結ぶような なだらかな坂です。
そして三四郎が、熊本から上京して、団扇を手にした美禰子を初めて目にした池の畔・・・それが今は三四郎池と呼ばれています。三四郎池の正式名称は、育徳園心字池で、元々は加賀藩の上屋敷の心字池を中心とした回遊式庭園だったのが、今は東京大学構内で、医学部と安田講堂の間あたりのある静かな空間です。
小説「こころ」では、友人の墓に月参りをしていた雑司ヶ谷霊園に、漱石の墓があります。
戒名・文献院古道漱石居士
ふと、漱石の千円札を一枚、持っていればよかったと後悔しています。手元には板垣退助の百円札は持っていますが、漱石の千円札には気が回らず、手元にあるのは野口英世ばかりでした。
[追記] パソコンに保存してた過去の写真ですので、 松山の写真は11年前のことで、2024年1月現在、道後温泉本館は改修中で、2階と3階は利用できません。
また東京の写真は9年前のもので、新宿区立の漱石公園に漱石山房記念館が出来る前です。
明治44年8月に、関西の各地で講演をして巡る折に、明石の中崎公会堂の「こけら落とし」に、漱石が講演をしているのですが、中崎公会堂の写真を見つけることできませんでした。何枚も撮っていますが身近な場所なので、かえって見つけることが出来なかったです。