神戸駅・坂本村

 日曜の午後に、神戸文化ホールでのフェニックスフィルの演奏会を聴くために神戸駅を利用しましたが、神戸駅の位置は、江戸時代の「神戸村」ではなくて「坂本村」と「兵庫津」との境目辺りになります。

 此処は、平安時代からの湊がある「兵庫津」と、1858年(安政5年)の日米修好通商条約などの、いわゆる「安政五カ国条約」により、貿易を前提とした開港場として、兵庫津近くの、当時は西国街道沿いの寒村に過ぎなかった「神戸村」の浜に開かれた神戸港との中間的な位置になります。ちょうど横浜港が、東海道・神奈川宿の神川湊近くの寒村・「横浜村」を開港場としたのと同じです。そして鉄道の駅も、最初の「横浜駅」は、現在の根岸線桜木町駅が港に直結する感じの終端駅だったのが、横浜から西へ延長して、神戸までの東海道線とするために神奈川宿の近い位置に移転しています。神戸駅も、その後更に西の山陽線と接続するために、港直結の終端駅だったのを北側にずらして西へ延長しており、駅の位置が変わっています。

 明治・大正期は、神戸駅近くで兵庫津に隣接する湊川・新開地が神戸の繁華街だったのが、今は元・神戸村だった辺りの三ノ宮界隈が神戸で最も賑やかな繁華街になっています。それに対して横浜は、元々の横浜村界隈の関内や伊勢佐木町から、今は神奈川宿に近い横浜駅近辺がもっとも賑わっており、中心となる繁華街の遷移は、横浜と神戸とでは異なります。

 六甲山系の山と、大阪湾の海に挟まれた東西に細長い神戸の市街地で、JR神戸駅は、両端をカーブに挟まれて、ほぼ南北にホームがあるような感じでです。元々は大阪・梅田のステーションからの線路が、大阪湾に突き出した和田岬の兵庫津に突っ込むような初代神戸駅だったのを、更に西に延長するために、明治中期に今の位置にずらしたので、現在のような線形になっています。

 神戸駅のホームで、上り方面(大阪方面)は、六甲山系に向かって、ほぼ北に線路が伸びて、そして90度近いカーブで三ノ宮・大阪へ向かいます。

 神戸駅の下りホームから浜側(東)を見ると、ハーバーランドという平成になって出来た新しい街がありますが、この一帯は貨物ヤードがあったそうで、初代神戸駅も、この辺りに港に臨むような形のホームだったそうです。写真下側の標識を拡大すると、

 「東京起点の東海道本線の終点586km340m、神戸起点の山陽本線の起点東海道本線0Km」の距離標です。

 明治時代に高架駅となっているのですが、東海道本線の終点駅で、昔は東京発神戸行の優等列車の設定も多く、重厚な内装の駅です。写真の右側に、かつては貴賓室があったそうですが、その後店舗となって、今はその店舗も閉店しています。

 神戸駅の正面・・・レトロな感じがそのままで、隣の兵庫駅も、同じような面影を残しています。

 神戸駅がある位置は、西国街道沿いで、東から「神戸村」「二ツ茶屋村」「走水(はしうど)村」を超えて、宇治野川と旧湊川の間になります。上の地図では「楠木正成墓」の近くで「坂本村」になります。今は宇治野川は暗渠となって埋め立てられ、旧湊川は付け替えられて新湊川となって、川跡は埋め立てられて湊川・新開地という繁華街となりました。

 江戸時代の古い「坂本村」の地図では、真ん中に「楠公碑堂」と書かれて、小さな杜となって描かれています。楠木正成は、後醍醐天皇の武将として鎌倉幕府を倒し、その後、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦い、最後は湊川の合戦で、この「楠公碑堂」の場所において弟・正季と自害し生涯を閉じています。

 この場所に忠臣義士の鏡として顕彰のために「楠公碑堂」を建てたのは水戸光圀です。そして幕末になって薩摩藩を中心に国家として楠木正成を祭祀する神社を創建するべきだと建白し、「湊川神社」が明治政府によって創建されました。

 湊川神社の脇にある楠木正成の墓

 その傍らに、水戸光圀の銅像があります。

 神戸地方裁判所です。兵庫津の町の中にあった兵庫城址に、尼崎藩の兵庫奉行所が置かれ、その後幕府直轄地の天領となって「兵庫勤番所」(大阪町奉行の支配下)、明治新政府が誕生すると慶応4年1月に「兵庫鎮台」、2月には「兵庫裁判所」、そして5月には「兵庫県庁」となっています。そして明治元年となる直前の慶応4年9月に、この湊川神社の東に隣接する、当時の「坂本村」に「兵庫県庁」は移転、1873年(明治6年)に下山手通りに移転するまでの約5年間は兵庫県庁でした。移転後に、司法機関としての裁判所となって現在に至っています。

 湊川神社に隣接した北側に「神戸中央体育館」

 そして山手幹線を挟んで北側に、神戸文化ホールが位置します。

 神戸文化ホールの北側は、神戸大学の医学部のキャンパスと神戸大学病院があります。元々は兵庫県立神戸医科大学だったのが、唱和43年(1968年)に国に移管されて、神戸大学医学部となって、今の神大・楠木キャンパスです。

 神戸大学医学部の東側(文化ホールの北東)には、大倉山公園があり、それに隣接して神戸中央図書館があります。今は、神戸市の各区に図書館が設置されていますが、以前は図書館はここだけで、子供の頃は垂水区に住んでいたので、神戸中央図書館は遠いので、一度か二度ぐらいしか利用した記憶がないです。近かった明石公園内の県立図書館か明石市立図書館をもっぱら利用していました。

 繁華街の中心は、三ノ宮・元町ですが。神戸駅周辺は、浜側にハーバーランドの新しい街と、山側には文教地区が広がっている感じです。この辺りは、江戸時代までは「坂本村」そして「荒田村」だった場所です。

 ちなみに坂本村は、慶応4年に「神戸町」として「神戸村」と「二茶屋村」と「走水村」が合併した後に、明治12年の郡区町村編制法によって「神戸町」と「兵庫津」そして「坂本村」が「神戸区」となっています。明治22年の市制施行により、「神戸区」と「荒田村」それに「葺合村」で神戸市となった経緯を辿ります。

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