テムズとともに
明大通りの坂を下って駿台下の交差点を、三省堂の左の細い「すずらん通り」を少し入ったところにある東京堂書店で、会計のカウンター付近に並んでいた「テムズとともに」を買ったのは、今から31年前になるようです。当時は、神保町の本屋街で半日ぐらい古本屋を巡ることも多く、まだ明大が古い校舎で、平成ひとケタの当時は、まだ明大には立看がズラッと並んでいた頃です。その時に目にして買ったのか、それとも、あらかじめ購入リストに入っていたのか、今となっては記憶がないですが、「テムズとともに」を買った時の光景は記憶に残っています。
立太子の礼から2年位のタイミングでの刊行で、オックスフォードに留学した時は、まだ浩宮と呼ばれていた時代です。
「テムズとともに」の著者は徳仁親王となっており、一般に皇太子や浩宮と呼ばれることが多い中で、本を手にしてもピンとこなかった覚えがあります。
著者の紹介を見て、兵庫津の海運に関する論文があり、入手していました。
オックスフォードではテムズ川の水運の研究とのことで、「テムズとともに」の8章では、オックスフォードにおける研究生活と題して、テムズ川の水運の研究にまつわることが書かれています。
今日は天皇誕生日、「テムズとともに」を本棚から取り出して、「テムズとともに」にまつわる思い出を振り返りました。
兵庫北関入船納帳は、中世に兵庫津の経が島に設置されていた関所で、文安2年(1445年)1月から翌年1月までの1年余りの入船及び関銭賦課の記録のことです。兵庫北関は、この写真の運河(新川)の場所から振り返った運河に面した北側にあったようで、今は石川(株)の工場がある辺りだったようです。平安時代に日宋貿易の拠点である大輪田泊にルーツがあり、この辺り一帯は平清盛が築いた人工島で、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて経石として埋め立てに使ったそうで、築島の名称として「経が島」と呼ばれたそうです。
この兵庫津に、幕末に裁判所が出来、「兵庫」という件名のルーツになる一帯です。