明石城 巽櫓

 明石城には天守閣が元々なく、2つの櫓・巽櫓(たつみやぐら、南東側)と坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)、その2つの櫓の間の帯曲輪(おびくるわ)それと石垣が現存するだけで、櫓に関しては限定して公開されていたのですが、初めて櫓の中に入りました。

 公開されているのは櫓の1階部分だけで、人数制限があって、スリッパが15組、少し待って中に入りました。

 明石は、室町時代に枝吉城があったのが、豊臣秀吉から播磨国明石郡の6万石を与えられたキリシタン大名の高山右近が、明石川右岸の林村に船上城を築き、バテレン追放令で高山右近が追放された後の船上城は、豊臣秀吉の直轄になったようです。江戸時代に入ると、播磨国に池田輝政が移封され、姫路城を居城として、一国一城令によって船上城は1年ほど放置されていたようです。

 池田輝政の孫・池田光政の時に幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封され、その時に播磨52万石は、姫路城主が姫路藩30万石となって、それ以外は明石藩10万石、赤穂藩3.5万石、平福藩2.5万石、山崎藩3.8万石、鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割されています。その中で明石藩は信濃国松本藩から小笠原忠真が転封となって、空いていた船上城に入城しています。第2代・将軍徳川秀忠より、譜代大名にふさわしい築城命令が出されて、人丸山に最終的に明石城が築かれることになったようです。

 そして廃城となった三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用して、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の木材が使われたようです。剣豪・宮本武蔵が小笠原忠真に仕えていたので、城下町の町割りは宮本武蔵が関わったようで、20年ほど前に、三の丸跡に「武蔵の庭園」が整備されて、今も解放されています。

  2階部分は、階段はありますが立入禁止で公開されていません。なんだか気になりました。

 明石城公園の桜は、一部は3分咲きぐらいでしたが、まだ赤みの蕾の桜も多かったです。

itsumi
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