神戸の燐寸と教育
瀧川辨三・・・先日、大倉山の中央図書館の郷土コーナで見掛けた「瀧川辨三 神戸と燐寸と教育と」が禁帯出だったのですが、貸出用にも蔵書があるようで、予約をして受け取りました。
かなり以前に、神戸のマッチ産業の歴史の展示を見た記憶があるのですが、おそらく閉館した神戸らんぷミュージアムだったような気がします。神戸らんぷミュージアムは関西電力の経営効率化のために2013年3月いっぱいで閉館となって、手元のデジカメを探すと3月17日に神戸らんぷミュージアムに訪れていました。記憶では閉館間際で大変混雑していた記憶があります。
古いマッチ箱のデザインを集めた展示はデジカメで撮っていましたが、ランプや電灯の展示の記録は多いのですが、マッチ関係はあまり撮っていません。古いマッチ箱でも意匠の関係で撮影禁止だったのかもしれませんし、その時は、神戸のマッチ産業の歴史に興味があまりなかったかもしれません。
マッチ関係は、この2枚だけでした。
日本のマッチ産業のルーツは、金沢藩の藩費でパリに留学した清水誠が、明治6年にフランスの工芸大学に入学し、その時に宮内次官吉井友実が外遊先のパリのホテルで清水誠と会談したときに、吉井友実が卓上のマッチを指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」と言われて、清水誠はマッチを日本で製造する決心をしたのが原点のようです。
清水誠は帰国後、明治8年に海軍造船官として横須賀造船所に勤務したようですが、その傍ら別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、その後、内務卿大久保利通にマッチに専念するように言われて退官して、本格的にマッチの製造に集中、そして明治9年に東京・本所柳原町に工場を新築し「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけて本格的な工場生産を開始ています。
明治10年に神戸市山手通で堀という人がマッチ工場をつくったのが神戸マッチ産業の原点で、清水誠が士族授産・産業振興の見地からマッチ製造法を公開したことで、その後各地にマッチ工場が出来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとなったそうです。
そして明治13年に瀧川辨三が神戸で清燧社(せんすいしゃ)を設立しています。当時は各地に中小のマッチ工場が乱立して製造技術が未熟の上、乱売・安売りで工場経営不能となり廃業が相次いだそうで、粗悪な輸出品によって海外の信用を失い、順調に輸出を伸ばしていたのが数年で輸出が激減し、多くの中小工場が廃業してしまったようです。
結局は、瀧川辨三の清燧社など数社がその後のマッチ産業の担い手となり、その後のマッチの隆盛に貢献したようです。瀧川辨三の清燧社は海外への輸出を順調に拡大させ、工場の新設・買収を繰り返して大正5年に瀧川燐寸株式会社を設立しています。
瀧川の名前が残るものとしては、大正7年に財団法人兵庫中学校を設立し、兵庫県瀧川中学校として初代の校長を務め、兵庫電気軌道(現・山陽電車)の取締役にも就任し、貴族院議員も務めていたそうです。
金沢藩の藩費でパリに留学した清水誠は、明治6年(1873)には廃藩置県で文部省留学生となり、同年フランスの工芸大学に入学している。
7年に外遊中の宮内次官吉井友実とパリのホテルで会談した際、吉井卿が卓上のマッチを指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」と言われて、清水誠はマッチを日本で製造する決心をしたといわれている。