ラジオ塔(明石・中崎)

 明石の市役所の北側に「ラジオ塔」があるのが気になっていたのですが、ラジオ塔の前で自転車を停めて、じっくりと説明の看板を見ました。

 ラジオ塔というのは、ラジオの普及のために、ラジオ放送の黎明期に、多くの人にラジオ放送を聞かせるため、公園などに設置した、ラジオの放送を聴くことが出来るようにした塔だそうです。そういえば「街頭テレビ」というのが太平洋戦争後にテレビ放送が始まった頃、街中に設置した街頭テレビの前で、プロレスやボクシング、大相撲や中プロ野球の中継に、たくさんの人が小さな画面を見るために集まって、試合の中継に一喜一憂したのは聞いたことがありますが、その街頭テレビのルーツのようなもので、ラジオ放送の黎明期には、各地のラジオ塔の前でラジオ体操をしたり、スポーツ中継を聴いていたようで、当時の全国中等学校野球大会(今の甲子園・高校野球のルーツ)は人気だったそうです、

 日本でラジオ放送が始まったのが大正14年(1925年)で、東京・大阪・名古屋の3局体制で始まったそうです。今はラジオは受信契約はふようですが、ラジオ放送が始まった頃は受信契約が必要で、ラジオの受信契約数を増やすために、受信機器の普及・維持のための講習会や無料相談所を開設したり、ラジオ放送のプロモーション映画を作ったり、電車の車内広告や新聞でラジオ番組を案内するなど工夫をしたようです。

 その中で効果があったのが、ラジオ塔だそうで、大阪放送局(今のNKH大阪局)が昭和5年(1930年)に大阪の天王寺公園に設置されたのが最初だそうで、翌年の昭和6年(1931年)には、奈良の奈良公園と神戸の湊川公園に設置されて、結構好評で、ラジオの受信契約も大きく伸びたので、昭和7年(1932年)以降は、東京の隅田公園をはじめ札幌から福岡・熊本まで全国に設置されたようです。

ラヂオ塔の掲示板より 昭和11年当時

 明石のラジオ塔は、当時は「中崎遊園地」と言われた人気スポットに昭和12年(1937年)に設置されました。現在は中崎遊園地と言われた砂浜・海岸線は埋め立てられ、市役所・市民会館・中崎小学校が現在あります。そして勤労福祉会館の処にあった播陽(ばんよう)幼稚園も埋立地に移転しています。そして中崎遊園地の東側の埋立地には大蔵海岸公園が整備されています。

ラヂオ塔の掲示板より 昭和34年の航空写真

 この辺り一帯は、砂浜の近くの海水浴場のような感じで、現在の国道28号線辺りが海岸線だったようです。ラジオ塔の西側(写真・左側)は昭和32年に開館した市立水族館です。ラジオ塔の東側の道路の北側が播陽幼稚園で、ラジオ塔が設置された昭和12年には錦江ホテルがあった場所です。当時のラジオ塔の横の案内・掲示板では、「ラジオが一般に普及していなかった時であり、ラジオ体操や野球・大相撲の実況、歌や漫才などの放送が人気で、塔の周りには人だかりができました」と書いていました。

 この明石のラジオ塔は、アンテナやアンプなどの受信装置は塔の内部ではなく、近隣の錦江ホテルに設置して、地下に埋設したケーブルによってラジオ塔のスピーカを鳴らしていたそうです。

 ラジオ塔は、その後全国に460箇所に設置されたそうですが、太平洋戦争後には役目を終えて、現存するものは40箇所程度で、近隣では神戸・諏訪山公園のラジオ塔も残っているそうです。今も修復して役目を復元しているものもあるそうです。ちなみに前橋と明石の2つのラジオ塔が登録有形文化財にしてされています。

 ラジオ塔の東、中崎公会堂の近くに「明石遊園」という石碑がありました。漱石がコケラ落としの講演をした中崎公会堂は、中崎遊園地(明石遊園)の中、東の端ぐらいに位置していたようです。

 中崎公会堂のコケラ落としで講演をした夏目漱石は、明石に一泊して明石滞在は24時間もなかったようですが、その時に宿泊した宿「衝濤館(しょうとうかん)」が今も残っているのはわかっていたのですが、どの建物なのかわかりませんでしたがやっと見つけました。ほとんど消えかかった「衝濤館」という表札があるというネット情報があったのですが、その表札はもうなくなっていました。市道明石中央55号の南側です。

itsumi
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