松風村雨堂

 生まれて、3歳までは、神戸・須磨に住んでいました。今はJR神戸線の「須磨海浜公園駅」という新駅が14年前に開業して、駅から徒歩数分という場所になっています。駅の北側は駅真のロータリが出来て商業施設が出来、近くのスーパーもオープンしていますが、駅の南側は、国道2号線に近く、須磨水族館(来月オープンの神戸須磨シーワード)があり、そして少し東側には若宮商店街があり、以前は個人商店が並んでいたのが、今は新しく駅が出来たのですが、普通の住宅が多くなっています。

 3歳まで住んでいた処から、北西に直線距離で四、五百メートルの処に「松風村雨堂」があるのですが、今まで行ったことがなかったのですが、初めて訪れました。

 3歳の記憶に残っている半地下の交差点です。地上を走る複々線のJR神戸線との立体交差のために、車道と歩道とが線路の下を潜るような感じになっています。当時の自宅から北西に100メートルちょっとの場所で、此処の光景は3歳の記憶に残っています。この市道・月見山線をまっすぐ北(写真手前)に進むと、旧・西国街道を挟んで、徒歩5分ちょっとで、山陽電車の月見山駅となります。そして、この道を南側す進むと国道2号線となって、国道を渡ると須磨水族館、そして須磨海水浴場の砂浜が広がっています。国道の手前にはラジオ関西の本社ビルがありましたが、阪神淡路大震災で被災し、本社ビルはなくなっています。

 此処から線沿いに西へ200メートル歩いて、そのまま北に進んで、西国街道を渡って、山陽電車の踏切を渡ると松風村雨堂です。

 松風村雨堂は、此処に平安時代の公家で歌人だった在原行平が、天皇の怒りに触れて、京の都から五畿内の西の端であった須磨の地に蟄居していた時に住んでいた場所で、在原行平が赦されて京の都に戻った後に、在原行平を偲んでお堂が建てられたと言い伝えられています。

 在原行平が須磨に移り住んで時に、多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」の姉妹が、多井畑から潮汲みに通っていたそうで、在原行平との出逢いがあったようです。伝説では、その時に砂浜の松林を風が吹き抜け、娘の頬を通り過ぎ、そしてにわか雨が娘の黒髪に降りかかったとのことで、在原行平は2人の娘に「松風」と「村雨」と根付けて、仕えてもらったそうです。

 そして在原行平が赦されて京の都に戻る時に、狩衣と烏帽子を松に掛けて姉妹への形見とし旅立ち、在原行平がいなくなっても姉妹は、在原行平を慕い続け、在原行平の居宅のそばに庵を結び、観世音菩薩を祀り行平の無事を祈り、そして庵を結んだそうです。

 京に戻る時に詠んだ和歌が、百人一首に収められている
立ちわかれ いなばの山の 峯におふる
まつとし聞かば 今かへりこむ


 須磨での蟄居の寂しさを紛らわすために、浜辺に流れ着いた木片から一弦琴をつくったという伝承もあり、須磨琴として残っています。

 在原行平が京の都に戻る時に、狩衣と烏帽子を掛けた「衣掛の松」の3代目だそうです。(写真左)今から1100年以上前で、松は長寿と言われて数百年の寿命があるようです。そして写真右の松の古株は、在原行平が須磨を去る時に、手ずから植えた「磯馴松」だそうです。

 この周辺には、衣掛町、松風町、村雨町、行平町、そして磯馴町という地名が残っていますが、在原行平に由来する地名のようで、3歳まで住んでいた家は磯馴町でした。



 
 

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