玉音放送
今日は終戦記念日、、8月6日に広島に原爆、8月8日にソ連が宣戦布告、8月9日に長崎に原爆と、相次いで深刻な事態が続いて、それを受けて8月10日に御前会議が開かれた経緯を経ています。御前会議ではポツダム宣言受諾か拒否か(条件付降伏か無条件降伏か)で判断が出来ず、天皇が和平を望んでいることを発言したことを受けて、御前会議はポツダム宣言受諾という結論となったようで、その後閣議で決定という経緯だったようです。
同日・10日の午前8時に海外向けのラジオ放送を通じ、日本語と英語で政府がポツダム宣言を受諾し、日本軍が降伏したことを伝え、モールス通信で交戦国に直接通知が行われたようです。翌日11日には中立国のスイス公使とスウェーデン公使から両国外務大臣にポツダム宣言受諾の旨を手渡し、両国より連合国に渡された経緯があったようです。
ただ御前会議の決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張する多数の将校からの反発があったようです。ポツダム宣言を受諾することが政府決定された後も、日本軍や一般市民に対して伏せられたままだったので、10日の午前8時の日本政府のポツダム宣言受諾より、玉音放送(日本軍戦闘停止の勅令)が下る15日正午までの5日間は空白の期間ということになります。
12日に連合国の米バーンズ国務長官による返答「バーンズ回答」があったのですが、その内容が「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」とのことで、『subject to』を「制限の下に置かれる」と「隷属する」の翻訳のニュアンスの差異から、13日の軍と政府の最高戦争指導会議では議論が紛糾した為に「バーンズ回答」の返答が遅れたため。連合国側がポツダム宣言受諾を訝しんだために連合軍の戦闘や爆撃は継続され、結果として千葉や小田原、熊谷や土崎などへの空襲が継続されてしまったそうです。
結局、14日に再度の御前会議が開かれ、戦争継続を主張する意見も出たようですが、天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、14日の夕方に閣僚による終戦の詔勅への署名となり、皇居で深夜に玉音放送が録音されたそうです。
15日未明に宮城事件という一部の陸軍軍人らが玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生したそうですが、15日朝に鎮圧され、8月15日正午の玉音放送で全国民と全軍にポツダム宣言受諾を表明し、これをもって戦闘行為が停止されたそうです。朝ドラの「本日は青天なり」では、はじめて女子アナ(女子ラジオ放送員)となった元子が、14日から15日に掛けて玉音放送の円盤が運ばれる前夜の放送局内の混乱が描かれていました。
しかしソ連軍の進攻は、8月22日の停戦交渉成立まで武力攻撃として続いたようで、9月2日の日本との降伏文書調印後も千島諸島へソ連軍は進出を続けています。
今日、改めて玉音放送を耳にしましたが、公開された「終戦の詔書」を目にしないと、意味が聞き取りにくい部分が多く、詔書の文に目を通しても、意味がわからない箇所がありました。79年前の正午に、ラジオで耳にした当時の国民は、今と違って文語調には慣れていたとしても、聞き取りにくい人が多かったのかなあ~と感じます。
79年後の今日の終戦記念日、終戦の折の天皇・裕仁の孫の天皇・徳仁が、全国戦没者追悼式でお言葉がありました。
戦後30年を経過したタイミングで、昭和天皇_天皇皇后両陛下共同記者会見を行っており、当時録音した共同記者会見の内容をカセットテープで録音していたものを、YouTubeにupしています。
iTad YouTube channel 28分37秒
昭和天皇_天皇皇后両陛下共同記者会見
https://www.youtube.com/watch?v=PphfRsTpdnE