市電・深江~魚崎

 東灘区の散策がてら神戸市電の展示を見に行きました。前職場の先輩から市電が展示されているという情報を教えて貰いながら なかなか足が向かなかったのですが、出掛けるついでにしばらく足が向いていなかった深江や本山辺りの散策もしたくなって、早目に自宅を出ました。

 久し振りにJR神戸線・摂津本山駅で降りました。此処は学生時代にアルバイト先の工場に通うために1か月以上通っていました。以前は改札から地下通路を通ってホームへ上がっていましたが、橋上駅舎になっていました。

 小寄公園・・・以前は神戸市の運営する「本山交通公園」という施設だったようで自動車教習所のような練習コースがあったそうです。その名残か、公園内には1周330mのジョギングコースがあり、何人かの人が走っていました。十数年前に一般の公園となったようで、ジョギングコースとグランドがありました。

 公園の南側に神戸市電の車両が展示されていました。4年前に補修工事があったそうで、結構良い状態での展示です。

 調べると1155は神戸市電の中では最後に作られた形式のようで、1956年10月の製造で68年前ですが、神戸市電としては最新型になります。

 公園の北東には蒸気機関車の展示がありました。市電は4年前に補修が入って良い状態でしたが、こちらはサビが目立っていました。

 C型「S108」という蒸気機関車で、石原産業株式会社の四日市工場で、1967年10月まで使用されていたそうです。

 公園を後にして、阪神電車深江駅へ向かいました。高架化前は、此処に踏切があり、地下に改札があって、地下通路に店舗があったのですが、下りだけが高架化、そして今は高架化工事が終わって完全に高架駅になっていました。

 阪神淡路大震災では、この阪神高速道路が倒壊していました。

倒壊した阪神高速 (報道写真より)

 震災のあった1995年1月から数か月後、当時担任していた生徒の家庭訪問で何度も倒壊した阪神高速が撤去された国道43号線を渡ったのは29年前の秋頃だったと思います。神戸市内では彼方此方で解体作業があって、コロナ禍と違って防塵マスクのようなものを当時はしていた記憶があります。

 大学時代に1ヶ月あまりアルバイトで通っていた化学工場を探しました。調べると二十数年前に倒産して住所がわからず、工場が密集している辺りを彷徨いました。JR摂津本山駅から、この高橋川沿いを歩いていた記憶が蘇りました。

 道路を跨ぐパイプかベルトコンベアのようなものの下を歩いた記憶が蘇りました。

 今は別の会社になっていますが、此処の古い工場の建物に記憶があり、此処に数週間、平日の朝から夕方まで、塗料関係の作業をしていました。記憶が薄れた学生時代の一コマが、かすかに蘇りました。

 国道2号線から少し浜側(南側)の道を西に向かって、本山や魚崎の街並みを歩きました、東灘区は神戸の最も東側で、太平洋戦争後の1950年に神戸市に編入されています。旧菟原郡の中で隣接する芦屋市と共に甲南市となる構想もあったようですが、東灘の区域は神戸市に。そして菟原郡精道村は、芦屋市となってそのまま現在まで町村制以降合併を一切行っていないです。兵庫県では加古郡播磨町が、加古郡阿閇村から町制に移行した例があり、県内で町村制以降合併を一切行っていないのは芦屋市と播磨町だけです。

 そのような経緯で、本来は灘と呼ばれた地域が、先に神戸市に編入した西灘の地域が「灘区」を名乗ったので、「東灘区」という名称になっています。歩いているとナダシンの看板を見つけレンズを向けました。普段の生活圏ではナダシンの店舗がなく、概ね灘区と東灘区に店舗があり、久し振りにナダシンを見たような気がします。

 独特の門柱の灘中高校です。神戸は幕末・維新以降、外国貿易の港町として急激に発展して、欧米のキリスト教の宣教団体が設立したミッションスクールがルーツの大学や中高校が幾つかありますが、神戸の地元の産業・商業が設立した学校として、元町にある神港学園(元・神港中学)と、ここ灘の灘中高校(元・灘中学校)です。神港中学が神戸の商業系のバックアップで出来た学校で、灘中学校は灘の酒蔵のバックアップで出来た学校です。

 神港中学と灘中学校以外にも、地元神戸だけではなくて関西の財界人と政治家も関与・バックアップして設立した甲南学園(元・甲南中学校と甲南高校)もあります。

 灘高の西は住吉川、川の右岸には人工島・六甲アイランドとJR・阪神電車を結ぶ新交通システムの六甲ライナーの高架が並行しています。住吉川で川遊びする姿がありました。大雨が降ると背後の六甲山系からいっきに増水して、過去にはいっきに増水して被害に遭ったケースもあり、川への降り口には大きく注意書きがしていました。

国道2号線で住吉川を渡って右岸(西側)には、東灘区役所と消防署が並んでいます。阪神淡路大震災の後、勤務校が数か月の間避難所となって、当時は国道の南側(写真左側)に区役所があって、何度か通った記憶があります。震災直後は、区役所周辺は、避難所のことや、仮設住宅の申し込み等々、いろいろな情報を求めたり相談のために、この辺りは人混みでごった返していたように思います。

itsumi
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