共同幻想

 吉本隆明の名前は、オウム真理教のサリン事件において麻原彰晃を擁護するような論評をしたことで、世間的に多くの批判を浴びて、今も吉本隆明に対してネガティヴなイメージが纏わりついているような風潮を感じます。

 社会人となった後に、学士入学した大学の社会学の授業で、柄谷行人の思想に沿った切り口に沿った内容の講義の中で吉本の思想に触れて、その後、結構影響を受けていましたが、もう何年も本棚に並んでいるだけで、手に取ることもなかったのですが、ラジオのニュース解説を聞きながら、ふと吉本の「共同幻想」が頭に浮かんで久し振りに本棚から取り出しました。もう30年以上前に買った本で、本の函(ケース)は色褪せていました。

 共同幻想はマルクスの上部構造(superstructure)から派生させたような用語で、詩人である吉本が、文学的な表現として、複数の人間の中で共有される幻想というようなイメージで用いた言葉で、個人と自我の関係である自己幻想と、個人と他者とのプライベートな関係である対幻想と併せて人間関係を3種類に分類できると主張しています。

 吉本の主張は、ともすると常に共同幻想は自己幻想に勝利するというようなニュアンスとして捉えられ、個人がいくら努力しても変えられない巨大なマクロ的な力として時代の流れや歴史の流れには逆らえないという風に読み取れ、吉本自身も、そのような主張をしていたようです。

 残念ながら吉本の著作や論評が多くの学生に読まれた安保闘争の世代から随分後の世代になるので、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」での歴史認識や戦争観をめぐっての対立・論争で吉本の存在を遡った感じになります。

 ハマスによるイスラエル攻撃に端を発した中東の紛争や、ロシアによりウクライナ侵攻に端を発した東欧の紛争をニュースで触れると、中東や東欧から遠く離れた地で「個」と「上部構造」について考えさせられます。そして昭和初期から太平洋戦争敗戦までの十数年間の日本での「個」と「上部構造」についての関係性を、80年の時を隔てて考えさせられます。

 アカデミックな学界とは無縁な、ひとりの詩人・吉本隆明が、自身の戦争体験や安保闘争に飲み込まれた体験からの著作にシンパシーを感じます。

itsumi
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