SONY

 色褪せた新聞紙に包まれビニール袋に入れられたものを引き出しの奥から引っ張り出してきました。

 大学の実務訓練先のソニー技術研究所で、実務訓練が終わった時に記念に貰ったものです。まだCPUが8bitだった時代で、OSとしてはCP/Mを使っていた時代の、主にデジタル回路用のプリント基板で、このプリント基板上で誤り訂正符号の回路を組んで評価をしていました。

 マスターコースに進学する学生は、4年生の後期は卒研の代わりに実務訓練(インターシップ)が課せられ、4年生の10月から2月までの5か月間、品川にあった工場に併設されていた技術研究所で、CADAのグループに配属されていました。CAble Digital Audio(CADA)は、当時はケーブルテレビが全盛だったアメリカで、ケーブルテレビの同軸ケールに、ケーブルテレビ1ch分の帯域でDigital Audioの情報を流すというシステムを提案して、SONY USAで売り出す開発を担当しているグループでした。その中で、デジタルデータの誤り訂正回路の部分を担当していました。

 本棚の奥から、大学時代の資料を引っ張り出すと、当時の報道発表の記事の切り抜きが残っていました。

 SONYと刻印されたプリント基板、今は、このような基板を使うことはないと思いますが、当時はまだまだLSI化が進んでおらず、TTLのMSIのICを配線してプリント基板をBUSに刺して、8bitのコンピュータで開発・評価をしていました。まだC言語が普及しておらず、ソニーでも8bitのZ80のアセンブラ言語でコーディングして、CP/M上で動かしていました。このプリント基板は当時の業界標準だったS-100バス用のプリント基板だったのか?記憶が曖昧でわかりません。

 S-100busは、1974年にAltair 8800のために設計された外部バス規格です。現在の汎用の外部バス規格としては、USBが全世界的に普及していますが、USBはシリアルバスですがS-100busはパラレルバスになります。初期のコンピュータバスとしてはS-100busは当時の業界標準でした。CP/M用のドライバを実装したコンピュータシステムは、「S-100コンピュータ」と言われて、多くのメーカーによって製造され、40年ほど前にはマイクロコンピュータ用の外部バスの初の工業規格となってIEEE-696として規格化されていました。ただ8bitマシン用の外部バス規格だったので、IBM PCや互換機、そして1984年のIBMから販売されたIBM PC ATの互換機が圧巻して、ATバス(ISA)が業界標準のようになって、その後のDOS/Vマシンの確立も相まって、1994年にIEEEは、S100busのIEEE-696規格を廃止した経緯を辿っています。

 このプリント基板は、今となっては希少価値があるかもしれないなあ~と、処分するのはもったいなく、記念として、また引き出しの奥に仕舞いこみました。

 実務訓練の5か月間は、五反田のソニーの独身寮から、高輪プリンスホテル脇の柘榴坂を歩いて15分ぐらい、一応ソニーからは品川ー五反田間の定期を貰っていたので、朝は超混雑するので徒歩でしたが、帰りは時々山手線に乗っていました。新幹線の駅が出来る前で、品川駅の北口から、構内のトンネルを通って南口に行く必要があり、そのために通勤定期は必須でした。

 ソニー五反田ユースハウス、2011年8月25日 東京・品川区

 十数年前に東京を訪れた時に探すと、当時住んでいた寮がありました。写真の左側の白い建物は浴場で、実務訓練中に完成しました。それまでは国道1号線を横断して銭湯に通っていました。その後、また訪れると、この寮はなくなって一戸建ての住宅が数件建っていました。通っていた銭湯もなくなっていました。そして五反田駅から東へ向かう通称ソニー通りにあったソニー本社ビルをはじめとする本社機能のビル群もなくなって、呼称のソニー通りだけは残っていました。そして品川工場の跡地に、ソニーシティとして高層ビルが建って、本社機能が集約されているようです。

itsumi
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