陪餐

VII. Worthy receivers,outwardly partaking of the visible elements in this Sacrament, do then also inwardly by faith, really and indeed, yet not carnally and corporally, but spiritually, receive and feed upon Christcrucified,and all benefits of his death: …….

七 ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。 ・・・・・
ウエストミンスター信仰告白第29章7より

 私は聖書によってキリスト教にのめり込めなかった者です。私の今のキリスト者としてのアイデンティティの礎は聖餐です。象徴的な儀式としてのではなく、<信仰によって現実にまた実際に>、<十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる>ところの聖餐です。そして共にキリストの血肉を喰らう仲間としての教会がそこにあります。

 聖餐において、聖霊の働きを通してキリスト者は、天の父なる神の右に座したるキリストのみもとにまで引き上げられ、キリストの体を味わい、養われるのです。
 <十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえるキリスト>とこの世に生きる<私>を結ぶ聖餐(見えるみことば)を通して、それまでわからなかった聖霊なる神を受け入れました。言い換えれば、三位一体を聖餐を通して受け入れました。

 神学書やcommentaryを読みふけった時期がありました。もちろんそれらのことは大切なことなのですが、残念ながらそれほど頭の良くない私は、結局は神学書やcommentaryを読むことによって信仰が養われることより頭でっかちになり、理屈っぽくなり、高慢な鼻が高くなりました。私の天狗の鼻をへし折ってくれたのが聖餐でした。

 私の敬愛するある牧師が、以前日曜礼拝の説教の中で「もし地獄に落とされ、燃える火の中で焼かれようとも、その中で神を賛美したい。」と言うような言葉を漏らしていました。キリスト者の信仰は、救わ
れて天国に行くことを確信することと思っていたので、がんと頭を殴られたような気がしました
    May14,1995

itsumi
聖餐