外国人住宅

 垂水区の塩屋の一角、小高い丘に「ジェームス山外国人住宅」があり、塩屋土地(株)の私有地で、現在は立ち入りが出来ません。

 元々は英国人貿易商アーネスト・ウイリアム・ジェームスが1930年に、自邸を含めて英国人用賃貸住宅(異人館)を約60棟以上開発したことがルーツで、その後は太平洋戦争でジェームスも日本を離れて、戦後は米軍が接収していたそうです。戦後にジェームスが戻ってきて米軍と折衝して取り戻したそうですが、1952年にジェームスが逝去して、相続税を払うために遺族が売りに出したのを、三洋電機創業者であった井植歳男が買取って、開発・管理会社として1957年に塩屋土地(株)を設立したそうです。

Googleマップより

 写真左側の坂道の東側(写真右側)の木々が多く緑に恵まれた区域が「ジェームス山外国人住宅」です。小学生の頃は、夏には虫取り網を持ってセミを捕まえによく行きました。セミを追って庭に入ると、外国語で怒られた記憶があります。昔は地元との交流もあったそうですが、今は立ち入り禁止となって、地元との交流もなく、隔離された領域になっています。。

 写真の左上の丘の上のビルが三洋電機の研究所ありました。今も井植記念館として公開されています。

 「ジェームス山外国人住宅」のメインの入り口です。お不動さんまでの参拝はOKのようですが、その先は、今は入ることが出来ません。

 塩屋カントリークラブが併設されていますが、ここも会員制で、基本的に外国人専用です。レストランだけは一般に利用可能なようです。

 メインの入り口以外は管理員がいないようで、機械式のゲートがありました。かなり厳重です。

Googleマップより

  「ジェームス山外国人住宅」の丘と道を隔てた西側の丘、頂上に三洋電機の井植記念館がある丘は、子どもの頃はジェームス山と言って、ここも自由に入ることが出来、このように緑豊かではなく、開発・造成を途中でやめたようなハゲ山の小高い丘で、遊び場でした。太陽光パネルがあった辺りで、子どものころに遊んでいました。今は此処も立ち入ることが出来ません。写真左上に、通っていた中学校があります。

 ジェームスの私邸は、このジェームス山の南(写真の更に下の方向)の滝の茶屋駅の近くに、ジェームス鄭として残っており、食事や結婚式が行えるようになっています。

 子どもの頃を過ごした一帯を散策しました。塩屋の街中・塩屋谷川沿いにある「中野センター」で、一階が店舗で2階以上が住宅で、中学校の時の担任の先生が、此処に住んでいたという噂でした。しばらく前までは中に入ることが出来、最後は喫茶店が1軒営業していましたが、今は廃墟のようになっています。

 中学校の時の通学路です。朝は、この道を通っていました。帰りは、急ぐときはこの道でしたが、それ以外は広い道を通って帰っていたように思います。

 小学校の通学路、というよりも帰りに友達と一緒の時に、この路地のような怪談の奥の道を通っていました。今は途中に家が出来て、この道を通って小学校に行くことは出来なくなっています。子どもの頃は、私有地を通っていたようです。

 福田川沿いにある昭栄堂製菓の工場です。子ども時代は、田畑の中にポツンと工場が建っていた記憶があります。昔はレンゲが咲き誇る田畑が、川沿いの一帯にあったのですが、今はびっしりと住宅が立ち並んでいます。

itsumi
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