聖餐の現在・過去・未来

 神学書や注解書を読んでも、下手をすれば、頭でっかちで理屈ばかりこねる人間が増えるだけかもしれません。もちろん、何も考えずに聖書の内容をただただ信じたり、説教壇から語られる牧師の言葉を”アーメン!”と鵜呑みするのは寂しいことですが・・・。

 聖餐は過去に完了された<十字架の贖罪>の記念であり、未来に天でもたれる、身体的・肉的な晩餐の予型であるととらえることが出来ると思います。その意味ではまさに、<かってあった事を現在において未来に投げかける行為>であり、<昔のイエスキリストの事を今信じる同時性>であると言いきれるのでしょう。

 使徒信条の内容を自らの信仰告白とせず、教会において呪文のように使徒信条をただただ唱えているだけならば話は別ですが、イエスをキリストと告白する者は、<過去>に完了されたイエスの十字架の罪のあがないを<現在>のcontextの中で信じ、<未来>においてイエスとまみえる者であると言えるでしょう。


 <現在>においては天のキリストと地上のキリスト者は身体的・肉的に離れているので、聖餐において聖霊を通して、現実にまた実際に、しかし身体的または肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。
   (ウエストミンスター信仰告白より)

 過去に十字架の贖罪がなければ、あるいは未来にイエスとまみえることがなければ、聖餐は無意味なのではないでしょうか?

 聖餐とは、<信仰の同時性において>、<その信仰を未来に向かって投げかける意味を持つ>となるのでしょう。
   May14,1995

itsumi
聖餐