聖餐・聖徒の交わり
聖餐は、この終わりの時に与えられる、神様と私たちとの完成された交わりを、今この地上において、私たちが前もって、一時の間かいま見させていただき、その恵みの片鱗にふれる時なのです。聖餐にあずかることによって、私たちは、世の終わりの救いの完成への希望を新たにされ、それを待ち望みつつこの世を歩んでいく力を与えられるのです。
藤掛順一:「宗教改革における聖餐の問題」、聖餐ーなぜ、受洗者の陪餐かー p105、日本基督教団改革長老教会協議会1994
この聖餐は、罪をあがなうための犠牲を備えるためにもうけられたのではない。というのは、その犠牲はすでにささげられたからである)。むしろ、われわれの信仰がそれによって覚醒され、良心が慰められるためである。それは聖餐をとおして恵みと罪のゆるしとが、キリストによって約束されることを認めることである。したがって、聖餐は信仰を必要とするのであり、信仰なしには、用いられても無益である。
アウグスブルク信仰告白 第24条より
礼典としての聖餐の意図は、みことば同様、罪の赦しの恩恵そのものである.みことばと不可分の関係にあり、みことばなしに聖餐はない.聖餐の固有性は、神が霊魂・身体的存在の人間に全的に語っておられることにある.パンとぶどう酒という卑近な要素に託すまでに御自身を低めて臨んでおられるのである.みことばが霊・知性に語られるのに対して、聖餐は身体そのものに与えられる。
橋本昭夫:「聖餐論」、新キリスト教辞典 p687、いのちのことば社1991
使徒信条の<聖なる公同の教会>、<聖徒の交わり>に、聖餐を礎とした教会の姿が浮かびます。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン
May15,1995