聖餐と父なる神

 これまで聖餐における聖霊なる神、子なる神を考え、思い巡らし、またいろいろな立場のものを読みましたが、聖餐における父なる神に関しては思い及ぶことはありませんでした。最後の晩餐、十字架、見える品々(パンとぶどう酒)、聖霊の働き、御言葉・・・と、いろいろなキーワードを頼りにして聖餐を考えたことはありますが、父なる神が抜けていました。

 聖餐の中で、見える品々と御言葉によって、聖霊なる神と子なる神を通して、天にましますところの父なる神を「アバ父」と呼ぶ、そこに聖餐のクライマックスがあるのかなと、ふと思いました。

 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  マタイにより福音書6章6節 新改訳

 「天にまします父なる神よ」と、祈りるのにもっともふさわしい場のひとつが聖餐式なのかもしれません。聖餐の場は奥まった、隠れた所のひとつかな、と聖餐の中で思いました。

 食事の前の祈り、礼拝の中での公的な祈り、朝夕の祈り、教会の祈祷会での祈り、家族との祈り・・・、さまざまな祈りの優劣をつけることは出来ないし、それぞれに大切だと思います。ただ、聖餐の中で、聖霊の働きによって、十字架のイエスの血と肉に養われて天の御座に在る父なる神の御前に霊的に呼び寄せられた時の、アバ父と呼び掛ける時の祈りは、特別なもののように思うんです。

 聖餐において、聖霊なる神の働きによって、霊的に天に座する神の御前に呼び寄せられた陪餐者は、父なる神と顔と顔をあわせて、アバ父と呼ぶことができる。未来における身体的な神との関係の修復の予形として、神との霊的な関係の修復が聖餐の場にあるのではないでしょうか?まさに、アバ父と呼びかけるその時こそが聖餐のクライマックスのように思うんです。

  July17,1996

itsumi
聖餐