ヨブの見た神を
神の沈黙の前に、聖餐は慰められます。イエスの現前に、十字架の贖いの確かさと、復活のいのちの確かさを見ます。礼典って、私にとって「特効薬」です。
今私の通ってる教会は第一聖日が聖餐式なんですが、第一聖日が待ち遠しいことがあります。普段は結構ラフな格好で礼拝に出席することが多いのですが、聖餐式のある日は、スーツを着たりします。(ある意味でこれは問題だなと思いつつ)ヨブ記の次の箇所と聖餐のイエスとにanalogyを感じます。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、
ちりと灰の中で悔い改めます。
旧約聖書 ヨブ記42章5,6節 新改訳
「信じたい」とか、「信じてるっ!」とかの人間の側の思いではなく、キリストに接ぎ木されて、神が私たちをもう離してくれないのかもしれません。「一生イエスにつきまとわれる」のでしょう。そんなことを「うっとおしい」と思う「低空飛行」の時期も神様が備えて下さったことかもしれません。(サタンの誘惑かも・・・。)
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
旧約聖書 詩篇37:5 新改訳
Dec18,1996