平凡な聖餐
私の「平凡さ」は、「効用がない」ということではないんです。「そのものに効用はある、あるけれど、あたかも効用がなかったかのようだ」ということなんです。それを「平凡さ」と私は表現したのです。もちろん、「そのもの」とは、「聖餐」を思い描いています。
私の「平凡な聖餐」とは、「効用があるあるけれど、効果が実感出来ない聖餐」、「イエスの血肉を喰らっているのに、いのちを実感できない聖餐」「儀式としての聖餐」ということです。
「いのち」が「いのち」を「喰らう」ことによって「養われる」という「聖餐」にあずかりながらも、「ときめき」も「めくるめくような思い」も「ほとばしるような思い」も実感できないで、淡々と「儀式としての聖餐」の中にある場合を「平凡」だと表現したんです。つまりpassionのない聖餐のことです。
そういう意味での「平凡さ」を、アメージング・グレースと感じたい、という思いをもっているのです。「効用があるんだから、実感がなくても良い」ということです。
何も描けず
一日が終わった
こんな日と
大きな事をやりとげた日と
同じ価値を見出せる
心になりたい
「キダチベコニア」:星野富弘詩画集より
passionを感じた、感じなかった如何に関わらず、聖餐のほんとうの「価値」を見つめたいと思います。
*
ん~~、私は、聖餐式に期待して臨んでいます。passionを期待しています。「燃えるような期待」で臨み、結局は平凡な聖餐って場合が多いです。肩に力を入れて、気負って、聖餐を待ち望んでしまいます。それがいけないのかもしれません!!
Jan22,1997