救い・裁き・聖礼典
<救い>というのは、徹頭徹尾「受け身」だと思います。
『「救い、救済」という事実状態』は、人間の側が認識する・しないに関わらず事実として存在するものであり、その事実を喜びを持って受け入れることが喜びとして現れる、というべきかなあと思います。
ある牧師が、『死んで、地獄に行ったとしても、「神の裁き」故に、燃える地獄の焔の中で神を賛美する。』と、説教の中で云われたのが心に残っています。「救われた」というのは、天国行きの切符を手に入れることではなく、「神の裁き」を<喜んで>受け入れる状態のことなのなあと、考えさせられました。
(結果ではなく、捧げることに重点を置いて)
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(語弊がありますが)「救い、救済」という事実状態にある者は、そうでない者より優越した環境(もちろん物質的な意味ということではなく)の中にあるわけでもないと思います。
神から与えられた「いのち」は、救われた者も、そうでない者も、等しくて差がない(優劣がない)と思います。
そして、日常の生活の中で、「私は救われた幸せモノ」と喜びを噛みしめて生きていくのも、「心貧しき者は幸いなる哉」と、あるがままに生きていくのも、ともにクリスチャンだと思います。
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敢えて云えば、『日常の生活の中で、聖書を読み、聖礼典を受けるという「幸い」の中にある』という状態を念頭に置く、それがクリスチャン生活というものかもしれません。
Sep18,1997