聖礼典での平等性
教会での奉仕、献金の額、聖書研究、神学の学び etc、それらの多少に関係なく、人の価値は、神から賜った「いのち」の故に、等しく尊い、と思います。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43章4節 新改訳
でも、現実には、いろんなことを考えます。
「あの兄弟は、心から教会の奉仕を喜んでいるのに、私は当番だから嫌々」「嫌々でも私はサボることはないのに、あの姉妹は病気の義母を口実に何もしない。」
「あの人は教会では大きな顔をしているけれど、聖書の知識はほとんどない。私はあの人より聖書の知識はあるし、信仰は篤い。」
「あの奥さんは、説教が始まると、うとうとしている。でも教会バザーでは一番目立っている。私はそんなことは苦手だけれど、説教は熱心に理解して聞いている。神父(牧師)は、そのことをちゃんと知っている。」
神の裁きを信じ、それに委ねたクリスチャンが、いつのまにか「裁き主」になっている。人を裁き、自分を裁いている。アイロニー(皮肉)ですね。
でも、サクラメントの場において、人の「思い」「思惑」を遥かに越えたミサ(聖餐)の「イエスの血肉」の前では、そんな思いの入る隙はないです。
あなたがたの救われたのは恵みによるのです。
エフェソの信徒への手紙2章5節より 新共同訳
福音って、そういうことなんだなあと、ときどき思います。
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「宣教」というと「海外」「異郷」「異教」と、「飛び出すこと」「攻めること」「出会い」と連想してしまいがちですが、それだけなら「焼畑農業」と同じかもしれないですね。
「宣教」には「飛び出す勇気」の素晴らしさとともに「留まる決断」の大切さを併せ持つ必要があるのでしょうね。「留まること」「守ること」「入会い」etc ・・・。「焼畑農業」ではなく「耕す」こと、「宣教」にはそのことが求められるべきなんでしょうね。
Sep21,1997