共に聖餐?

 旅先等主張先等で、違う町で礼拝を守ろうとする場合、その町の教会を調べる時に気になるのは、教派・教団です。自分と同じ様な立場の教会が、とりあえず安心なんです。

 まあ、まったくの飛び込みで他教会の礼拝に出席するケースというのは、おそらく「かなり希」で、その教会に知人がいるとか、なんらかの情報を頼りにその教会の来訪者となるケースが多いでしょうから、「敢えて」の確信犯は別として、現実に、まったく異質の聖餐理解のキリスト者が共に聖餐にあずかるという想定は必要ないのかもしれません。

 たとえばカトリックの信者の方が、プロテスタントの保守的な改革派教会で礼拝を守る機会があったとして(神戸の私の通っている教会に共に礼拝に出席するようなケース)、礼拝の中での聖餐式において、そのカトリックの信者の方は同じキリスト者として陪餐されるのか、或いは聖体拝領ではないので遠慮されるのか、ということです。そして同じキリスト者として陪餐されるのなら、それは「聖体拝領」を受けたことになるのか、それとも、「プロテスタント教会でパンとぶどう酒を飲み食いした」に過ぎないことなのでしょうか?

 保守的な改革派教会では、「これは私のからだ、血」と云いながら、聖餐を執り行う教会・牧師は、「身体的にではなく霊的な意味」でパンとぶどう酒が「イエスの血肉」として配餐(パンとぶどう酒を配る)します。受け取ったキリスト者は、そのパンとぶどう酒を、信仰によって、現実の(実際の)キリストの血肉として喰らう。という聖餐理解のところが多いと思うのですがそれを、カトリックの信者の方が「聖体拝領」として捉えることが出来るのかなあと、疑問なんです。

 たとえ、他教派・他教会に開かれ聖餐であっても、「その教会の聖餐理解の中で」という、条件というか、枠というか、その中で「共にイエスの血肉によって養われた」と言えるのであって、「その教会と自分との間に共通の聖餐理解」が小さい(少ない)状態では、「共に聖餐」から程遠い様に思います。
   Jun17,1998

itsumi
聖餐