となりのクリスチャン

 ここ2日程、別冊宝島の「となりの創価学会」を読みふけっていました。おもしろかったです。そして思いました、「となりのクリスチャン」という本は間違っても出ないだろうなと。

 キリスト教会が宗門(教師・教職者)と信徒団体に分かれたらどうなるんだろう?そうなったら聖礼典の扱いは?宗門から離れた信徒団体としての創価学会の今の姿を、キリスト教会にたとえると無牧の単立の教会が近いのかな? 等々、「創価学会」を「キリスト教会」に置き換えて、想像をたくましくして、楽しみながら読んでいました。

 良い悪いは<もちろん>別にして、創価学会のバイタリティの源は「勤行」と「本尊」ではないかと思います。『この世で生きる』ことに関しては、創価学会のひとりひとりの信者に脱帽します。

 しかし、キリスト教会はどうなんだ、と考えると、バイタリティの源である<主の体と血>を中心にしているのかな?と疑問です。

 聖書を読むこと、キリスト教哲学を学ぶこと、先達の思想に触れること、どれも大切なことだと思いますが、でも、ともすれば、『頭でっかちのクリスチャン』に傾きがちになってしまいます。

 世間一般から見れば魔術的ととられるでしょうが、旧い契約の上に結ばれた新しい契約は、イエスの血と体が基であり、見える品々(パンとぶどう酒)を通して”現実に”イエスを仰ぎ見る聖餐(聖体拝領)が、キリスト者の生活の出発点となれば、『この世で生きる』ことに関して、決して創価学会には負けないです。なにしろ、彼らは<「勤行」と「本尊」>というリアリティ(もっともらしいもの)がバイタリティの元ですが、こちらは<主の体と血>という本物(real)があるのですから・・。
  August 4,1995

itsumi
聖餐を巡って