受け身としての聖餐
私にとって神とは、「そこに存在する神」です。
心に平安を与えてくれる「慰め主」に留まらず、「我らをこころみにあわせず」との祈りに対して荒れ野に放り出す方であり、そして同時に荒れ野の中の泉です。
詩篇23篇を思いました。
たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ
なんぢ我とともに在せばなり
なんぢの笞なんぢの杖われを慰む
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わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん
我はとこしへにヱホバの宮にすまん
旧約聖書 詩篇23篇4節・6節 文語訳
梅雨の時期の雨も恵みなら、梅雨が明けて降り注ぐ真夏の太陽の光も恵みなんですね。「恵みはコレ!」って私が規定してしまっている部分があります。
なんだか今、ヨナ書が気になります。ヨナと自分にアナロジーを感じます。私はとうごまを望んではいないのに、でも結局はとうごまにすがりついているのかなと感じます。
July17,1996