アメージング・グレースな平凡さ
見ているだけで
何も描けず
一日が終わった
こんな日と
大きな事をやりとげた日と
同じ価値を見出せる
心になりたい
「キダチベコニア」:星野富弘詩画集より
アメージング・グレースって、平凡なことなのかもしれない、と最近思うことがあります。
日毎の糧が与えられた生活、いのちが与えられて「今生きているという
こと」。これらのことを「普通と思える」って、びっくり仰天することか
もしれません。
「ようやく手に入れられた糧」、「今日も生き延びれた」そういうことから(どちらかといえば)今の私は「無縁」です。糧が、いのちが当たり前と思ってしまいます。アメージング・グレースに「鈍感」になっているのかもしれません。
眠い説教、キリストを実感できない聖餐、それでもいいのかな?と思います。
主の祈りを、心の底から、すがるような思いで祈らなくてもいい状態を、なまぬるいと考えるか、アメージング・グレースと考えるか・・・、キリスト者としての「生き様」の違いだけなのかなとも思います。
平凡がアメージング・グレースなら、今の私はハレルヤ!です。
いや、平凡なことをアメージング・グレースと喜べることが信仰なのしょうか?でも、眠い説教にはアメージング・グレースより「忍耐」という言葉が似合っている?
Dec23,1996