リアリティからリアルへ
「リアルの持つリアリティ」という表現、私にとって絶妙です。
私は、「passionのない聖餐」という言葉によって、「リアルの持つリアリティ」ではなく、「リアルそのもの」を前面に出したかったのです。
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言い遅れましたが、2月の下旬に、神戸で「深い河」の自主上映会があり、平日の朝にもかかわらず、中規模のホールが立ち見の出るほど一杯になりました。
遠藤周作の原作にはなかったように思うのですが、(2冊目を買ったのですが、また他人の手に渡り手元にありません。)ガンジス河のほとり聖地ベナレスで、教会から追い出された大津がヒンドゥー教のアシュラムに拾われて、そこで一人でミサ(聖餐)を捧げる場面が映画「深い河」にはあります。
脚本の熊井監督のミサ(聖餐)の捉え方から、「キリスト・イエスの血肉を喰らう」という「実質変化」をあの場面(けがで危篤状態となる早朝)でズバリ表現したかったのか、それともヒンドゥー教のアシュラムにあってもキリスト者であることを表現したかっただけなのか、私にはわかりませんが、印象的でした。
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リアルとリアリティの問題は、聖餐のことに留まらず、「私にとってイエスとは?」を考えるときに、常に頭の中をよぎります。
「passionのない聖餐」という表現が出来るのも、Passion(イエスの十字架)という「リアル」に担保されているからこそ、安心して、はばかることなく書き込んだり、口にしたり出来るのかもしれません。
Passionがあるからこそ、私はpassionがどうでもいいのですが、でもこれって「リアリティをリアルによって担保」してることと同じかなあと、考え込んでしまいました。
Mar10,1997