聖餐と伝道
私が洗礼を受けた牧師が、陪餐者の条件を「洗礼」ではなく「信仰」としたきっかけが「団地の主婦の事情」であるかどうかは私は知りません。
私は「洗礼」と「聖餐」を独立して考えられないので、「洗礼がなくて聖餐だけ」というのは論外です。ただ、私の場合は「結果として」ですが、「聖餐から洗礼」に至りました。
(プロテスタント教会における)2つの聖礼典を切り放した「洗礼のない聖餐」、「聖餐のない洗礼」は別として、「洗礼から聖餐」から見て「聖餐から洗礼」は「倒錯」という言葉で表現するのは良く理解できるのですが、でも「聖餐から洗礼」を私は単純には切り捨てられないです。
聖餐に伝道的な意味を私はあえて付加するつもりはありませんが、イエスの血肉を目の当たりにする「聖餐」は教会そのものですし、聖書と相互補完関係にあると思うんです。
*
私は「聖餐」を形式とは思わないです。だからこそ「聖餐」にかかわるところの「秩序」を大切にしたいと考えるのです。
Dec8,1996