教会と聖餐

 私は「仲間」という言葉から「聖徒の交わり」、「聖餐共同体」を連想します。

 私は「聖餐」から「洗礼」に導かれた者です。今はカルヴィン系の教会の敷居をまたいでいますので、私自身の、あの未洗礼者として「ふさわしくないまま」に受けた、ただ一回の「聖餐」に関しては、いろいろと良い意味でも悪い意味でも悩みましたし、今も時々は思い起こしてさらに思い巡らすことを重ねています。
 
 カルヴィン系の教会では、「聖餐」の中に伝道的な意味を持たせていないのですが、私は聖書の「みことば」によって信仰に至らず、「見えるみことば」(カルヴィン系の用語でしょうか?)としてのイエスの血肉・聖餐に直面して、聖書の「みことば」を信仰という局面からも受け取ることが出来るようになり、教会の「秩序」の中で洗礼を受けました。
 
 私にとって「ふさわしくないまま」に受けた、あの「聖餐」は、結果として「伝道の効果抜群」でした。ただ、「聖餐」に伝道的な意味を持たせようとは私は思いません。やっぱり「洗礼から聖餐」だと考えます。
 
 「教会規則」と「神の意志」との関係として、「我々が管理してる規則」が「ボスが一声”OK”出したら消し飛んじゃう」というニュアンスは、教会の秩序の中にある者として考えさせられます。旧約の時代に恵みとして与えられた律法・契約が、いつしか人間の側の秩序の中で律法主義を産み、律法が恵みと受け取れなくなってしまったこととのanalogyが頭に浮かびました。
 
 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
  ローマ10:10 新共同訳

この「みことば」を十戒と共に、同じ「神からの恵み」と受け取れる信仰を持ちたいと思いました。
 Dec3,1996

itsumi
聖餐から洗礼