聖餐理解

 私は聖餐式を秘儀という意識はありません。陪餐者のみがパンとぶどう酒を「イエスの血肉」として食らうのではないでしょうか?聖餐式に同席した信仰を持たない方々にとっては、あくまでもパンとぶどう酒の飲み食いでしかないのでは?陪餐者だからこそ、イエスの血肉を食らうからこそ、パンとぶどう酒が「見えるみことば」なのでは?私は信仰を持たない方の聖餐式の(陪餐者としてではない)同席を伝道的とは思わないです。むしろ排他的なものと感じます。
 
 「洗礼から聖餐」の立場にありながら、「聖餐から洗礼」の道を全く閉ざしても良いのかなという思いもあります。自分の経験がもちろん大きいのですが「見えるみことば」って強烈です。それは聖餐式に同席しても見えません。

 わたしは、聖書本文のみからイエスが見えませんでした。「見えないみからだ」という表現はとって附けたような感がありますが、私にとっては現実にそのとおりでした。ただ、今現在は聖書本文に「見えないみからだ」という意識を持ってはおりません。 
  Dec4,1996
  

itsumi
聖餐から洗礼