聖餐共同体

 私にとって、教会における「聖餐」(イエスの血肉)によってつながっている仲間(交わり)は大切なものですが、信仰が同じでない方々との「良い」人間関係をたくさん持っていますし、それらは私の「宝」です。自分の信仰の故にそれらの人間関係を「表面的なもの」とはしません。
 
 私の妻とは、私がクリスチャンとなってから教会外で知り合い結婚しました。今も妻はクリスチャンではありません。聖餐によってつながっていない妻との関係を表面的なものとは思っていません。もちろん聖餐によっても妻とつながりたいという思いはあります。
 
 私にとって「聖餐共同体」は人間関係のひとつです、念のため。
 

 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
   ローマ10:10 新共同訳
 
 「人」が心で信じれば、「神」はその人を「義」(神の義)とされるのではないでしょうか?もちろん、その人の心に「信」を導いたのは神だと「私」は思います。
 
 私の場合は「結果として」聖餐から洗礼へと直結しましたが、かといって陪餐者の条件を牧師・個別教会に委ねるのは、「聖餐の乱れ」・「信仰の未熟」・「牧師の責任」へとつながると考えます。ただ、「聖餐の乱れ」は一牧師の責任には帰せられるような問題ではないと私は考えます。

 聖餐って、両刃の剣ですね。 「招いている」つもりで「この俺サマを仲間外れにするのか」という感情を持たせるだけで終わってしまっても伝道なのでしょうか?「ただの思い上った我侭」で済ませるのではなく、相手のcontextに立とうとすることが大切ではないでしょうか?
 
 余談ですが、理屈っぽく、素直でなかった私を、聖餐によってイエスの血肉を私に直面させて洗礼に導いたその牧師は、神様が備えられた「わたしに
って」必要不可欠な伝道者だったのかなとの思いを持ちました。
  Dec5,1996

itsumi
聖餐から洗礼