震災 レクイエム
昨夕は、神戸・東灘区の うはらホールでの「阪神・淡路大震災30年 メモリアルコンサート」へ行きました。
少し早めに自宅を出て、久し振りに三ノ宮の街をブラブラしていると、三宮センター街では昭和時代からの店が少なくなって全国どこでも見掛けるような店がかなり増えています。その中で小さな古書の「あかつき書房」が健全なので、久し振りに店内の本棚を見渡しました。以前は神田・神保町の古書街を半日彷徨っても楽しかったですし、つい何冊か買ってしまっていましたが、1軒の古書店で20分程見渡しても、もう本を増やしたくないので、何となく見渡すだけで終わってしまいました。
開場の少し前に到着すると、ホールを巡るように行列が出来ていました。ステージを少しだけ見下ろすような中央の座席に座れました。
「阪神・淡路大震災30年への祈り」と副題のついた『混声合唱、室内オーケストラ、ピアノのための「レクイエム」』で、昨年秋に初演されて、今回は室内オーケストラではなくてピアノ4手版の演奏でした。
レクイエム(Requiem)は、元々のラテン語では「安息を」という意味があり、本来はキリスト教のカトリック教会で、死者の安息を神に願うミサ曲ですが、今回のレクイエムは教会での典礼での演奏用ではなくて、コンサートで演奏される「葬送曲」「死を悼む」という意味でのレクイエムのようですが、松下耕という日本人の作曲家が、カトリックのミサ式文であるラテン語の歌詞を使って形式上はミサ曲となっていました。ですので入祭唱、キリエ、怒りの日、奇しきラッパの響き、呪われたもの、涙の日、サンクトゥス、楽園へと、約45分のレクイエムでした。
怒りの日 では、
怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。
審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。
震災のために書かれたというレクイエムにしては、ミサ式文そのままなので、震災を「神の裁き」「罪人が裁かれる」という風にも捉えられ、教会での演奏ならともかく、日本的な感覚では震災30年のために書かれ、そして震災30年の日の演奏会の曲としては違和感を感じながら聴いてしまいました。震災で被災された方々への感傷かもしれませんが、大きな被害があった東灘区での演奏で、当時、遺体安置所と近隣の方々の避難所となった本務校が500mほどの処にあって、30年前の記憶と重ねてしまって違和感を感じながら聴いてしまいました。
手元にカラヤン/ウィーンフィルと、バーンシュタイン/バイエルン放送楽団の演奏するモーツァルトのレクイエムのCDが2枚あります。どちらも三十数年前の録音で、バーンシュタインのはかなりゆっくりというよりスローな感じの演奏です。今朝、カラヤンのCDを聴きました。レクイエムなので、普段よく聴く曲でもないですが、モーツァルトの最後の作品で、お気に入りの曲です。
昨日は、早朝に神戸・中央区での「1.17のつどい」で東遊園地内を歩き廻って、夕方には三ノ宮の街を2時間ほど彷徨って、そしてコンサートを聴いて、と結構歩き廻ったので、昨日の運動消費カロリーは562kcalで、エクササイズ時間が61分、歩数が17,336歩で12.37km歩いたことになっていました。